一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

江戸末期、維新を成し遂げた志士たちの心の支えとなったのが佐藤一斎先生の教えであったことは国史における厳然たる事実です。
なかでも代表作の『言志四録』は、西郷隆盛翁らに多大な影響を与えた箴言集です。

勿論現代の私たちが読んでも全く色褪せることなく、心に響いてきます。

このブログは、『言志四録』こそ日本人必読の書と信じる小生が、素人の手習いとして全1133章を一日一章ずつ拙い所感と共に掲載するというブログです。

現代の若い人たちの中にも立派な人はたくさんいます。
正にこれから日本を背負って立つ若い人たちが、これらの言葉に触れ、高い志を抱いて日々を過ごしていくならば、きっと未来の日本も明るいでしょう。

限られた範囲内でも良い。
そうした若者にこのブログを読んでもらえたら。

そんな思いで日々徒然に書き込んでいきます。

第944日

【原文】
愆(とが)を免るるの道は謙と譲とに在り、福を干(もと)むるの道は恵と施に在り。


【訳文】
過失をまぬがれる方法は、へりくだること(謙)とゆずること(譲)にある。幸福を求める方法は、人に恵むことと施しをすることにある。


【所感】
あやまちを免れるために重要なことは、「謙」つまりへりくだることと、「譲」つまり他人に譲ることにある。幸福を手に入れるために重要なことは、「恵」つまり人に分け与えることと、「施」つまり施しをすることである、と一斎先生は言います。 


へりくだるということについては、以前にも紹介した『論語』顔淵第十二篇の言葉が心を打ちます。


弟子の子張が孔子に「どういう人が達人と呼べるか」と問うたのに対して、孔子が答えた言葉です。


【原文】
夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、慮りて以て人に下る。邦(くに)に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。


【訳文】
元来達人というのは、真正直で、正義を愛し、人の言葉を深く推察してその顔色を正しく観察し、よく考えて人にへりくだる。このようであれば国にあっても必ず通達し、家にあっても必ず通達する。(伊與田覺先生訳)


また、譲ることにかんしては、二宮尊徳翁の推譲についての解説が参考になります。


推譲 :将来に向けて、生活の中で余ったお金を家族や子孫のために貯めておくこと(自譲)。また、他人や社会のために譲ること(他譲)。(真岡市ホームページより)


ここにあるように「譲る」ことには、自譲と他譲があります。


もちろん本章で一斎先生が伝えたかったのは他譲の方でしょうが、自譲を忘れて他譲ばかりでは、いつかは破綻してしまいます。


さらに、一斎先生は幸せになるためには、恵みと施しが必要であると説きます。


ここにあげた謙・譲・恵・施はすべて与えることであって、自ら取るものではありません。


『管子』牧民篇にあるように、


取る者は、まず予(あた)ふるを知る。政の宝なり。 


ということで、これは政治に限らずマネジメントについても同様でしょう。

第943日

【原文】
「心を養うは寡欲より善きは莫し」。君子自ら養う者宜しく是の如くすべきなり。人を待つに至りては則ち然らず。人をして各々其の欲を達せしむるのみ。但だ欲も亦公・私有り。弁ず可し。


【訳文】
『孟子』に「心を修養していくには、欲望を少なくするよりよい方法はない」とある。立派な人物が自ら修養していくにはこのようにしていくがよい。しかし、人に対する場合には、そうではなくて、人をして各自その欲望を達成させるようにするだけである。ただ、人の欲望にも公と私の別があるので、この公・私の欲を見分けなければいけない。


【所感】
『孟子』尽心章句下篇に「心を養うは寡欲より善きは莫し」とある。君子を目指す人が修養を積む際には、これを実践すべきである。しかし、他人に対してはそうではない。各々の欲望を達成させるように動くだけである。ただし、その欲には私欲と公欲がある。そこをしっかりと明弁しなければならない、と一斎先生は言います。


まず『孟子』の言葉をみておきます。


【原文】
孟子曰く、「心を養ふは、寡欲より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も、寡し。其の人と為りや多欲なれば、存する者有りと雖も、寡し」 


【訳文】
孟子のことば「人の本心を修養するには、欲を少なくするよりよい方法はない。人となり欲の少ない者は、善なる本心の存せぬことがあっても、それはわずかである。一方、人となり欲の多い者は、善なる本心の存することがあっても、それはわずかばかりである」(宇野精一先生訳)


老子や荘子などは、明確に無欲を説いているのに対して、 ここで、孟子が無欲ではなく、寡欲を説いてる所は注目に値します。


小生も常々、凡人ゆえに無欲は不可能である。
いかに欲を少なくするかが重要であり、そのためには私欲を抑える大きな公欲を持たねばならない、ということを主張してきました。


一斎先生も、他人に対しては欲を満たしてあげるように動くべきであるが、その欲が私欲ではなく公欲であることをしっかり見極めなければならないと主張しており、小生としては100%同意したいところです。


特にリーダーは、メンバーの欲を満たしてあげる手助けをすることが重要な役割と言えるでしょう。


しかし、だからといってメンバーに迎合してはいけません。


あくまでも、メンバーの公欲あるいは志をよく理解して、その達成に協力を惜しまないという姿勢が重要であることは言うまでもありません。

第941日

【原文】
凡そ物満つれば則ち覆るは天道なり。満を持するの工夫を忘るる勿れ。満を持するとは、其の分を守るを謂い、分を守るとは、身の出処と己の才徳とを斥(き)すなり。


【訳文】
だいたい何でも物が一杯に満つるとひっくりかえるというのは、自然のなり行き(道理)である。どうすれば、満ちた状態を持ちこたえられるかという工夫を忘れてはいけない。満を持ちこたえるということは、自分の本分を守っていくということであり、その本分を守っていくということは、身の進退(ふりかた)と自分の才能・徳性とをよく考えて、分に応じた行動をしていくということである。


【所感】
概して物が一杯になるとひっくりかえるというのは自然の法則のようなものである。満ちた状態を維持するための工夫を忘れてはならない。満ちた状態を維持するとは、自分の分際をよく理解して守ることを言い、分を守るとは、自分の出処進退をよく鑑み、自分の才能や徳性をよく把握して行動していくことを指すのだ、と一斎先生は言います。


『孔子家語という古典にこんな言葉があります。


【原文】
孔子易を読みて、損益に至り、喟然として歎ず。子夏席を避けて問ひて曰く、夫子何をか歎ず、と。孔子曰く、其れ自ら損する者は、必ず之を益する有り、自ら益する者は、必ず之を決(か)く有り。吾是を以て歎ずるなり、と。子夏曰く、然らば則ち学ぶ者は以て益す可からざるか、と。子曰く、非なり。道益するの謂なり。道彌々(いよいよ)益して身彌々損す。夫れ学ぶ者は其の自ら多(た)とするを損して、虚を以て人を受く。故に能く其の満を成す。博きかな天道。成らば而(すなは)ち必ず変ず。凡そ満を持して能く久しき者は、未だ嘗て有らざるなり。故に曰く、自ら賢とする者は、天下の善言耳に聞くを得ず。


【訳文】
孔子が『易』を読んでいて、損益にまでくると深くため息をついた。子夏は坐を離れて質問した。「先生は何を嘆いておいでなのですか」。孔子は言った、「そもそも自分を減らしてゆく者は、きっと自分を豊かにすることになるし、自分を豊かにしてゆく者は、きっと自分を欠いてしまうことになる。こういうわけで嘆いたのだ」。子夏は尋ねた、「そうあるなら学問をしている者は、自分を豊かにすることはできないのですか」。孔子は言った、「いやそれは違う。道とは豊かにすることの意味だ。道がますます豊かになれば、自分はますます減ってゆく。そもそも学問をする者は自分で立派だと思うことを減らしていって、虚しくすることで、人の徳を受け容れるものだ。だから、自己を十分に徳で満たすことができる。遍く行き渡っているものだよ、天道というものは。完成すれば必ず変化する。およそ、十分な状態を維持したままでおられるものなどありはしない。だから、自分を賢者だと思っている人間は、天下に通用する善言を耳にすることができない。(宇野精一先生訳)


腹八分という言葉もあるように、人間にとっては満たされない状態が一番良いようです。


思いがけず地位や名誉を手に入れてしまうと、それを守ろうとして結局は、晩節を汚すことにもなり兼ねません。


そうならないためには、常に自分の分際を弁え、足るを知る精神で、徳を高める修養を続けるしかありません。


また、常に引き際を想定しておくことも大切です。


孔子は、40代で迷うことがなくなり、50代にして天命を知ったといいます。


その結果、60代には何を聞いても心を安んじていられるようになり、70代になると、何をしても道から外れることはなかった、と述懐しています。


これぞ分を守る生き方の究極の理想です。

第942日

【原文】
安の字に公・私有り。公なれば則ち思慮出で、私なれば則ち怠惰生ず。懼(く)の字にも亦公・私有り。公なれば則ち戦兢(せんきょう)として自ら戒め、私なれば則ち惴慄(ずいりつ)して己を喪う。


【訳文】
安んずるという意味の安の字には公と私の別がある。安が公につくと公安(公共の安寧)となって、社会が安らかに治まるためには、その治安についての考えが出てくるが、これに対して、安が私につけば、自分だけが安んずるということになって、そこには怠りなまける心が生じてくる。次に恐れるという意味の懼(く)の字にも公と私の別がある。懼が公につくと公のために恐れ慎んで自重自戒していくが、懼が私につくと恐れおののいて、喪心(本心を失う)自失(気ぬけ)してしまうことになりかねない。


【所感】
安という字には公的な意味と私的な意味がある。公的な安であれば、そこから思慮分別がなされるが、私的な安であれば、怠慢を生じてしまう。同様に懼という字にも公的な意味と私的な意味がある。公的な懼であれば、なにごとにも畏れ慎しむ気もちで自らを戒めることができるが、私的な懼であれば、恐れおののいて己を失ってしまうだろう、と一斎先生は言います。


ここでは、

公 = 社会のため、世の中のため 
私 = 自分のみのため 

と捉えておくと、わかりやすいでしょう。


世の中のために心を安んじていれば、心に余裕が生まれ、良いアイデアも湧き出てきます。ところが、ただ自分の身を安んじてしまうと、楽な方、楽な方へと気持ちが流れ、その結果なにもしないといった怠慢を生じてしまいがちです。


また、世の中のために恐れ慎むならば、驕り高ぶることもなく、自分自身を律することができますが、自分のためだけの恐れとなると、失敗を恐れて行動をしないという結果を招くでしょう。


成功の反対は、失敗ではなく、なにもしないことだ 


と言われます。


人間とは弱いものです。


誰も見ていないときに、公の心を失うと、新たなチャレンジをする意欲を失います。


独りを慎み、つねに公欲をもって日々を過ごさなければ、人生に何も遺すことはできません。

第940日

【原文】
病を病無きの時に慎めば則ち病無し。患(うれい)を患無きの日に慮れば則ち患無し。是を之れ豫と謂う。事に先だつの豫は則ち豫楽の豫にて一(いつ)なり。


【訳文】
病気を、病気にかからない前から十分に用心するならば、病気にはならない。それと同じように、憂いごとを、憂い事の無いうちによく考えておくならば、憂い事は起らずにすむ。このように事前に準備することを豫といっている。事前に準備するという豫は、楽しむという意味の豫楽の豫と同一である。


【所感】
病気でないときに充分に生活を慎めば病気には罹らない。憂鬱なことがない時にあらかじめ配慮しておけば憂鬱になることもない。これを「あらかじめする」という。あらかじめ先手を打っておくという意味の「豫(予)」は、たのしむという意味の「豫楽」と同じものである、と一斎先生は言います。


なにごとも準備をしておけば最悪の状態を免れることができ、結果として人生を楽しむことができる、という意味でしょうか。


「豫」という字には「楽しむ」とか「遊ぶ」という意味もあるようです。


通常、病気には必ず病気を発病させる因子があります。


病気は罹ってからでは、身体も辛い上に会社も休まなければいけませんし、治療にお金も掛かります。


病気を未然に防ぐに越したことはありません。


これを「未病」といいます。


未病の考え方を仕事に取り入れ、考えられる阻害要因に対して先手を打って排除しておけば、概ね仕事は成就するはずです。


同じく対人関係という人間最大の悩みについても、事前に策を講じておくことは可能です。


病気の治療にはそれなりの時間とお金が掛かるように、一度壊れてしまった人間関係を完全に元に戻すことは至難の業です。


小生はよく若い社員さんに対して、


準備で仕事は8割決まる 


と伝えますが、いざ自分の対人関係に置き換えてみると、反省点が次々に浮かんできます。


対人関係の軋轢を事前に予測して排除できれば、人間は放っておいても幸せになれるはずです。


未病の考え方は、病気だけでなく、仕事にも、対人関係にも活かせるのです。
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