【原文】
居敬の功は最も慎独に在り。人有るを以て之を敬するならば、則ち人無き時は敬せざらん。人無き時自ら敬すれば、則ち人有る時は尤も敬す。故に古人の「屋漏にも愧じず、闇室をも欺かず」とは、皆慎独を謂うなり。
【訳文】
常に敬の心を存する工夫修養は、独り居る場合でも、道に背かぬようにすることが最も大切である。人が居るからというので慎むならば、人が居ない時には慎まないであろう。人が居ない時に自ら慎むのであれば、人の居る時にはなお一層慎むことであろう。それで、『詩経』に「屋漏に愧じず」(人が見ない所でも恥じる行動をしない)とあり、程子も「闇室を欺かず」(暗い処でも良心を欺くことをしない)といっているのは、独り居る時でも慎んでいくこと(慎独)を説いているのである。
【所感】
常に啓する心(敬い慎む心)を保つ工夫は慎独にある。人が居るときだけ慎むならば、人がいない時には慎まなくなるであろう。人が居ない時に慎むならば、人の居る時には当然のように慎むはずである。 たとえば『詩経』に「屋漏に愧じず」とあり、程子が「闇室を欺かず」と言うのは、みな慎独のことを言っているのである、と一斎先生は言います。
小生もかつて人間学を学び始めたころ、「慎独」という言葉に出会い、感銘を受けるとともに、その実践の難しさを痛感しました。
これに関して、第152日で紹介しました『後漢書』という歴史書にあるエピソードを再掲します。
後漢の学者である楊震に推挙されて役人になった王密が、そのお礼として楊震に金十斤の賄賂を贈ろうとしました。
王密が
「夜なので誰にも気づかれません」
と言ったところ、楊震は
「天知る、地知る、我知る、子知る。何をか知る無しと謂わんや」
と答えて、王密を強く叱責したという故事です。
意訳すれば、
「お天道様も地の神様も、そして私もお前も見て知っているではないか。誰もいないなどと何故言えるのだ!」
となるでしょうか。
周りに人がいなくても天地の神様はすべて御見通しだということです。
小生の場合、最近はお天道様が見ていると考えるのではなく、ご先祖様が見ていると意識するようにしています。
しっかりと課題の分離ができている人は、周囲に人が居ようと居まいと、敬い慎む心を発揮することができます。
こういう人は、他人の人生を生きずに、自分の人生をしっかりと生きている人だと言えるでしょう。