一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

江戸末期、維新を成し遂げた志士たちの心の支えとなったのが佐藤一斎先生の教えであったことは国史における厳然たる事実です。
なかでも代表作の『言志四録』は、西郷隆盛翁らに多大な影響を与えた箴言集です。

勿論現代の私たちが読んでも全く色褪せることなく、心に響いてきます。

このブログは、『言志四録』こそ日本人必読の書と信じる小生が、素人の手習いとして全1133章を一日一章ずつ拙い所感と共に掲載するというブログです。

現代の若い人たちの中にも立派な人はたくさんいます。
正にこれから日本を背負って立つ若い人たちが、これらの言葉に触れ、高い志を抱いて日々を過ごしていくならば、きっと未来の日本も明るいでしょう。

限られた範囲内でも良い。
そうした若者にこのブログを読んでもらえたら。

そんな思いで日々徒然に書き込んでいきます。

第878日

【原文】
古人、易の字を釈して不易と為す。試みに思えば晦朔(かいさく)は変ずれども而も昼夜は易らず。寒暑は変ずれども而も四時は易らず。死生は変ずれども而も生生は易らず。古今は変ずれども而も人心は易らず。是れ之を不易の易と謂う。


【訳文】
漢代の大儒鄭玄(じょうげん)は、易字を解釈して不易(易簡・変易を加えて三義とす)といった。考えてみると、晦(つごもり:月終)からして朔(ついたち:月始)へと変わるけれども、昼と夜とは別に易りはしない。寒さ暑さは変っていくけれども、春夏秋冬は易らずいつも同じく繰り返されている、死ぬのと生まれるのとは変わるけれども、次から次へと生が持続されていくことには易りはない。昔と今は時間的に変るけれども、人間の心は易るものではない。これを不易の易という。


【所感】
古人(漢の鄭玄)は易を不易だと解釈した。試しに考えてみると、暦は晦(つごもり)から朔(ついたち)へと移り変るが、昼と夜は変わらない。寒暑は変って行くが、春夏秋冬は常に順番どおりに繰り返される。ひとりの人間は生きて死ぬが、次々に新たな生が生まれて来ることは変らない。昔と現在で時間は異なるが、人間の心は易わらない。これを不易の易というのだ、と一斎先生は言います。


易という言葉には易の三義と呼ばれる以下の三つの意味があります。
(竹村亞希子先生のブログより)
 
「変易」:森羅万象、すべてひと時たりとも変化しないものはない。 
「不易」:変化には必ず一定の不変の法則性がある。
「易簡」:その変化の法則性を我々人間が理解さえすれば、天下の事象も知りやすく、分かりやすいものになる。


この世の中に変化しないものはありません。しかしその変化には一定のルールがあります。このルールをよく把握したならば、上手に対処することも可能になるということです。


それを理解した上で自分の生を生き抜くためには、以下の「ニーバーの祈り」と呼ばれる考え方が参考になります。


「神よ、変えることの出来ない事柄については、それをそのまま受け入れる平静さを、 変えることの出来る事柄については、それを変える勇気を、 そして、この二つの違いを見定める叡智を、私にお与えください。」


作家でラジオパーソナリティの中村信仁さんは、


人間には「生まれて、生きて、死ぬ」という3つしかない。
そのうち自分でなんとかできるのは「生きる」ことだけだ。


と言っています。


一度しかない人生です。


変えられないことに心を奪われることなく、変えられることを変えていく勇気を持たねばなりません。

第877日

【原文】
春風以て人を和し、雷霆(らいてい)以て人を警め、霜露(そうろ)以て人を粛し、氷雪以て人を固くす。「風雨霜露も教えに非ざる無し」とは、此の類を謂うなり。


【訳文】
そよそよと吹く春の風は人の心を柔らかく穏かにし、雷鳴やいなびかりは人の心を戒め、降る霜や露は人の心を緊張させ、冷たい氷雪は人の心を堅固なものにする。『礼記』に「風雨霜露も教えで無いものはない」とあるが、これはいま述べたことと類するものである。


【所感】
春風のように人と相和し、雷鳴と稲妻のように人を戒め、霜や露のように人の心を引き締め、氷雪のように人の心を堅固なものとする。『礼記』にいう「風雨霜露も教えに非ざる無し」とは、こうしたことを言うのである、と一斎先生は言います。


すでに第279日のところで紹介しました『言四後録』の言葉、


春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら粛む 


の拡大解釈版といえるでしょうか。


とくにリーダーとしてメンバーに接する場合、基本的な姿勢としては、他人に優しく、自分に厳しくであるべきですが、時には他人に対して指導や戒めを与えなければいけない場面もあります。


もちろん自分が伝えたことが自分の想いの通りに伝わるように力を尽くすべきですが、それによってメンバーが「私のためを思って厳しいことを言ってくれているのだ」と理解してもらえることを期待してはいけません。


小生は勤務先での研修でも社員さんに対して、


「伝えること」より「伝わること」を意識せよ 


という話を繰り返ししています。


リーダーはメンバーを指導する場合、その点には十分に留意し、細心の注意を払うべきです。


しかしその結果、メンバーがどう理解するかはメンバーの課題です。


風雨霜露というものは、それが目の前にある今という時間においては、迷惑であり、避けたいものです。


しかし、風雨霜露があるからこそ、人間の生活は成り立つのです。


同じように、メンバーに今は理解してもらえなくても、いつかは理解してくれる時が来るかも知れません。


メンバーに嫌われたくないという理由で、言うべきことを言わなければ、リーダーとしてはその責務を放棄することになる、ということを本章の一斎先生の言葉から学ばなければいけません。

第876日

【原文】
天地間の事物は必ず配合の理有り。極陽の者出ずる有れば、必ず極陰の者有りて来り配す。人の物と皆然り。


【訳文】
天地間の事物には必ず釣合いの理というものがある。極端に陽気なものが現われると、必ずこれに対して極端に陰気なものが現われて、そこに組合せができる。人においても物においても総てこれと同じである。


【所感】
世の中の事物というものはすべて均衡がとれているものである。極端に陽なものが出ると、次には必ず極端に陰なものが出現する。人間も物もすべてこの理が支配している、と一斎先生は言います。


これも事実かどうかということより、こういうものだと信じることが重要なのではないでしょうか。


つまり、何事も最終的には釣り合いがとれるものだと考えるのです。


今目の前に辛いことが起きているなら、これを乗り越えれば、また良いことがあるはずだと考え、事実に向き合い、乗り越える勇気を得ることができます。


逆に今が最高、絶頂期というときには、やがては下降期、衰退期も来るだろうと考えることで、私欲を断ち切ることができるかも知れません。


ところで人間の積んできた行為(徳と不徳)の結果は、自分が生きているうちに返ってくるとは限りません。


以前にも紹介しましたが、『易経』にこんな言葉があります。


【原文】
積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃あり。


【訳文】
善行を積み重ねてきた家は、孫子の代にいたるまで幸せに恵まれる。不善を積み重ねてきた家は、のちのちまで必ず禍を受ける。(守屋洋先生訳)


今目の前にある不幸は、自分の行為の結果ではないかも知れません。


そんな境遇を憂い、先祖を憎むのもひとつの生き方。


しかし、自分の子孫のために、不善をやめて善を積む人生を送るのもまた別の生き方です。


善を積んでも、自分が生きているうちには余慶は訪れないでしょう。


それでもご先祖さまから子孫へと連なる家系の中で均衡をとるための一歩を踏み出す。


そんな強い人間であるために、まだまだ学び続けていきます。

第875日

【原文】
天道は変化無くして而も変化有り。地道は変化有りて而も変化無し。我れ両間に立ち、仰いで観、俯して察し、裁成して之を輔相(ほそう)す。乃ち是れ人道の変化にして、天地に参する所以なり。


【訳文】
天道(日月星辰)は常に変りなく照らすが、昼夜の交替変化がある。地道(山川草木)は常に変化している如くであるが、四季は同じく繰り返されて変化がみられない。人間はこの天道と地道との間に立って、仰いでは天文(日月星辰の運行)を眺め、俯しては地理(山川草木の条理)を視、この両者をうまくきりもりして助けていくのである。これがすなわち人道の変化であって、人は天地と徳を同じくすることができる。


【所感】
天の道は変化がないようで変化している。即ち日月星辰は常に変わることなく昼と夜に変化する。地の道は、変化があるようで変化がない。山川草木は常に変化しているようで春夏秋冬を繰り返す。私はこの二つの間にあって、天を仰いで天の理を観察し、俯しては地の理を観察して、天地の道が成就するように治め整え、天地の働きが適時適宜を得るように助けている。これが人道の変化であり天地の理を我が身に留める理由である、と一斎先生は言います。


この言葉は、『中庸』二十二章の以下の言葉を下敷きにしているようです。


【原文】
唯だ天下の至誠のみ、能く其の性を尽くすと為す。能く其の性を尽せば、則ち能く人の性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。能く物の性を尽くせば、則ち以て天地の化育を賛(たす)く可し。以て天地の化育を賛く可くんば、則ち以て天地と参なる可し。


【訳文】
ただ天下の至誠すなわちこの世界で最高の誠実に徹底した人(聖人)だけが、その本性を本来あるがままに十分に発揮することができるのである。自分の本性を十分に発揮することができるとすれば、他人の本性も十分に働かせることができるわけであり、他人の本性を十分に働かせることができるとすれば、物の本性も十分に働かせることができるわけである。そこで物の本性まであるがままに十分に働かせることができるとすれば、それは天地自然の造化育成を助けていることになり、天地自然の造化育成を助けていることになるとすれば、天地と三つに並んで対等に立ったことになるのである。(金谷治先生訳)


この世に生まれたからには、天地の理、天地の働き、すなわち宇宙の摂理に逆らうのではなく、それを助け補うような行動ができれば、天地と一体となれるのだ、という教えのようです。


宇宙の摂理を輔弼するというのは難解ですので、小生はこれを世の中の役に立つと解釈してみました。


もしすべての事物が宇宙の摂理に則っているとするなら、世の中のお役に立つことはそのまま宇宙の摂理を助け補うことになるのではないでしょうか。


世の中といってはまだ大きすぎるとするなら、自分が所属する共同体の中でお役に立つという意識でよいでしょう。


自分にとって損か得かを判断するのではなく、共同体の中で役に立つかどうかを判断基準に据えるのです。


常にこの基準から外れないようになれば、天地と同列に位置できるのでしょう。


ただし、あの孔子ですら、七十にしてようやく、「心の欲する所に従えども、矩を踰えず」と述懐しています。


常に社会や共同体のお役に立つ行動ができるようになるには、大変な鍛錬が必要だということです。


その一歩はそれに気づいた今から踏み出すしかありませんね。

第874日

【原文】
大にして世運の盛衰、小にして人事の栄辱、古往今来、皆旋転して移ること、猶お五星の行(めぐ)るに、順有り逆有り、以て太陽と相会するがごとし。天運・人事は数に同異無し。知らざる可からざるなり。


【訳文】
大にしては世の気運の盛衰、小にしては人間社会における栄誉と恥辱、これらはみな昔から今日まで、回転して移動している。それはあたかも五星の運行が、順なものがあり逆なものがあっても、結局、太陽と相会するようなものである。天運や人事も、その運行の理法に異なる所が無いということを知っていなければならない。


【所感】
大にしては時勢の盛衰、小にしては人間の栄誉と恥辱、これらは今も昔もぐるぐると旋回しており、あたかも五星の運行が順行もあれば逆行もあり、結局は太陽と相会するようなものである。天運も人事も宇宙の摂理に異なることはない。このことはよく理解しておくべきことだ、と一斎先生は言います。


この世の中に存在するすべての事物は、すべて宇宙の摂理に則っているということです。


時勢の盛衰という大きな面で捉えれば、宇宙の摂理の存在を肯定できても、自分の身の回りの人間関係といった小さな出来事となると、まるで宇宙の摂理などは関係ないように思えてしまうものです。


ここで重要になるのは、それが事実かどうかではなく、そうだと仮定することではないでしょうか?


もし自分の周囲で起きていることが、すべて宇宙の摂理に則っているなら、ありのままの自分を認め、いま自分の周りに起きていることをありのままに受け容れるのが最善だということになります。


現状を肯定する必要はありません。


まずは現状を容認し、そこから理想の自分に向ってどんな一歩を踏み出すかに精神と誠心を集中するのです。


ここで肯定と容認の違いについて、『嫌われる勇気』に掲載されていた内容を記載しておきます。


たとえば100点満点のテストを受けて、60点という結果であった際、


肯定とは、「自分は本当は100点が取れるのだが、今回は60点だった」という考え方です。


容認とは、「今は60点が実力だ。ここからどうやって点数を上げていくかだ」という考え方です。


ありのままの自分を受け容れる、という自己容認は、アドラー心理学を実践する上で重要な点です。


人からどう見られるか、どう評価されるか、という他人の人生に左右される生き方から脱却し、仮にある人からは嫌われようとも自分の人生を生きるべきです。


そして、それこそが宇宙の摂理に則った生き方なのではないでしょうか。

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