【原文】
吾れ既に資善の心有れば、父兄師友の言、唯だこれを聞くところの多からざるを恐る。書を読むに至っても、亦多からざるを得んや。聖賢の云う所の多聞多見とは、意正に此(かく)の如し。


【訳文】
自分に資善の心をもっておれば、父兄や師友の言葉を聞くことの多くないことをただ心配するだけである(なるべく多く父兄や師友の言を聞こうとする)。また読書についてもなるべく多くの書を読もうとしないわけにはいかないではないか。聖人・賢人が言った多問多見の真の意味は正しくこのようなものであろう。


【所感】
資善の心とは、他人の善言善行をとって自己の善としようとする心、のことだそうです。


一斎先生は、他人の欠点ではなく、長所を見て、徹底的に学びとろうとする姿勢を重くみています。


もともと「学ぶ」ということばは、「真似ぶ」ということばが語源だという説があります。


学ぶとは、その本質を理解することに他なりません。
ただ単に言葉を暗記するとか、行為をモノマネするだけでは、学びではありません。


孔先生も言われるように、疑問に思う所は徹底的に取り去り、その本質をえぐり出すまで思索し、実践することが求められます。


つまり、真の多聞多見とは、常に現状に満足せず、学び続ける姿勢を貫き続ける人のみがたどり着ける境地であって、決して知識をひけらかすことではないということです。


小生にとっては重い戒めの章です。