原文】
古人は経を読みて以て其の心を養い、経を離れて以て其の志を弁ず。則ち独り経を読むを学と為すのみならず、経を離るるも亦是れ学なり。


【訳文】
昔の人は、四書・五経を読んで精神を修養し、経典を離れて己の志す所をわきまえていた。そのように、ただ経典を読むことだけが真の学問ではなく、経典を離れてもそこに真の学問がある。


【所感】
昔の人は、経典を読んで精神を修養するのみならず、経典を離れて実地の生活において己の志の実現を図ったのだ。ただ経典を読むだけが学問ではなく、経典を離れた実際の生活の中にこそ真の学問があるのだ、と一斎先生は言います。


以前にも紹介しました二宮尊徳翁の言葉に、


「夫れ我教は書籍を尊まず、故に天地を以て経文とす。予が歌に『音もなくかもなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかえしつつ』とよめり、此のごとく日々、繰返し繰返してしめさるる、天地の経文に誠の道は明らかなり。掛かる尊き天地の経文を外にして、書籍の上に道を求むる学者輩の論説は取らざるなり。能く目を開きて、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり」


とあります。


小生のような凡人には、やはり経書などを学ぶことも必要ではありますが、大自然の法則の中にある天地の経文にも耳を傾けなければ、真の学問は修められず、結果として徳を身に付けることもできないということでしょう。


守破離という言葉があります。


ご存知のように、これは芸術や武道などにおける師弟関係のあり方を指す言葉ですが、これになぞらえてこの章を理解するならば、


守:経典を学ぶ


破:経典の内容を実地の生活に活かしつつ学びを深める


離:天地の経文を学ぶ


ということになるでしょうか。


いつかは自然の法則に適った生活ができるように、日々精進が必要です。