原文】
征、十の一に止まれば、則ち井田なり。経界、慢ならざれば、則ち井田なり。深く耕し易(おさ)め耨(くさぎ)れば、則ち井田なり。百姓親睦(ひゃくせいしんぼく)すれば、則ち井田なり。何ぞ必ずしも方里九区に拘拘(くく)として、然る後に井田と為さんや。


【訳文】
納める税金が、収穫の十分の一に止まってそれ以上に出なければ、それで井田(せいでん)である。田地の区画がはっきりして乱れなかったならば、井田である。田地を深く耕し、よく管理し、雑草を除くことができたならば、それで井田である。人民が争うことなくおとなしく仲むつまじくしておるならば、これも井田である。どうして一里四方、九つの区画に、こせこせとかかわって、そして後に井田となそうか。井田となるものではない。(九つの区画があって、はじめて井田であるということはない)


【所感】
税金が収穫の十分の一であれば井田法の原理にかなう。田地の境界がはっきりとしていれば、井田法にかなう。田地をよく耕し、除草されていれば正殿法にかなう。人民が仲睦まじくしておれば、これも井田法の原理にかなっている。必ずしも井田法の区画(殷・周時代の田制。田を九等分して井の形とし、周囲を八軒に分ける)に厳密に拘る必要などない、と一斎先生は言います。


以前にも紹介した狂歌


白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき


ではないですが、水がキレイ過ぎても魚は棲めないものです。


同様に人民もあまりにすべてが理路整然とルールに寸分も違わることが求められれば、窮屈に感じるものです。


本来の井田法が人民からの租税を徴収することが第一の目的として作られたのであれば、その他の決まりに多少に差異が生じたとしても、人々が仲良く働き、田地もよく手入れが行き届き、税金がしっかりと徴収できているのであればそれで良しとすべきである。


一斎先生はそう仰っています。


組織においても、社員さんに共通の目的(ゴール)を明確にするためのルールが作られているでしょう。


ここで、リーダーがマネジメントではなく、コントロールをするようになると、共通のゴールを目指すという本来の目的が忘れ去られ、ルールを守ることが目的と化してしまいます。


リーダーは、つねにマネジメント(なんとかやりくりしてゴールを目指す)を意識して、フレキシブルにメンバーに対応せよ、と一斎先生は教えてくれます。