原文】
天下の事物、理勢の然らざるを得ざる者有り。学人或いは輒(すなわ)ち人事を斥けて、目するに無用を以てす。殊に知らず、天下無用の物無ければ、則ち亦無用の事無きことを。其の斥けて以て無用と為す者は、安(いずくん)ぞ其の大いに有用の者たらざるを知らんや。若し輒ち一概に無用を以て之を目すれば、則ち天の万物を生ずる、一に何ぞ無用の多き。材に中(あた)らざるの草木有り。食う可からざるの禽獣虫魚有り。天果たして何の用有りて之を生ずる。殆ど情量の及ぶ所に非ず。易に曰く、「其の須(ひげ)をかざる」と。須(ひげ)も亦将(は)た何の用ぞ。


【訳文】
世の中の物事は、自然のなりゆきでそうならなければならないものがある。どうかすると、学問する人は、人の行なうことを排斥し、無用な物と見る。殊に「世の中には無用な物が無ければ、無用な事も無い」ということを知らない。学人が排斥して無用とするものは、それがかえって大いに役立つものであるということをどうして知ろうか。もしおしなべて無用の物と見るならば、天が万物を生ずるにあたって、なぜ無用の物を多く作ったのであろう。世の中には、用材に適しない草木もあり、食用にならない禽獣や虫魚もある。天が果たしていかなる用途があって、これらの物を生じせしめたのだろうか。それはほとんど人間の考えが及ぶべき所ではない。『易経』に「あごひげを飾る」という言葉があるが、そのひげもまた何の役に立つのであろうか。


【所感】
万物は皆、自然の法則に逆らうことはできない。学問をする人は、人の行いを無用なものと見るが、無用の用を知らないだけだ。無用のものが実は大いに役に立っていることを知らないのだ。もし一見して無用だと決めつけるなら、世の中にいかに無用のものが多いことか。建築に適さない草木、食に適さない生き物もある。天がいったい何のためにこれらを作ったのかは、吾々の考えの及ぶところではない。『易経』には、「あごひげをかざる」とある。そのひげも何の役に立つというのだ、と一斎先生は言います。


一見役に立たないものが、実は役に立っているということについて、『荘子』には有名な「無用の用」という故事があります。


惠子、莊子に謂ひて曰く、子の言は無用なりと。莊子曰く、無用を知りて、始めて與(とも)に用を言ふべし。夫(そ)れ地は廣く且つ大ならざるに非ざるも、人の用うる所は足を容(い)るるのみ。然らば則ち足を廁(はか)りて之を墊(ほ)り,黃泉に致らば,人尚ほ用いることあらんか?と。惠子曰く、用いること無しと。莊子曰く、然らば則ち、無用の用たるや、亦た明らかなりと。


訳は


恵子が荘子にむかっていった、「あなたの話は現実離れして実際の役には立ちませんね」。荘子は答えた「役に立たない無用ということがよく分かってこそ、初めて有用についてかたることが出来るのです。いったい大地は何処までも広々として大きなものだが、人間が使って役に立っているのは足で踏むその大きさだけです。しかし、そうだからといって、足の寸法に合わせた土地を残して、周囲を黄泉に届くまで深く掘り下げたとしたら、人はそれでもその土地を役に立つ有用な土地だとするでしょうか」。恵子「それじゃ役に立たないでしょう。」と答えたので、荘子は言った、「してみると、役に立たない無用に見えるものが実は役に立つ働きを持っているということが、今やはっきりしたでしょう。(わたしの話もそれですよ。)」(金谷治先生訳)


となります。


人間の生活に役立たないからといって、無用と決めつけることは危険なことです。


この世の中は人間のためだけにあるのではないからです。


極端に解すれば、組織の長となったとき、自分にとって役に立たないものごとをすべて切り捨てるようなことをしたら、必ずその報いを受けるのではないでしょうか?


一見、デキの悪い社員さんも、自分を光らせてくれるために存在しているのだ、と思うことができるかどうか。


人間の真の成長は、そうしたところにあるのかも知れません。


一見役に立たないものごとが存在する意味を深く考えるべきなのでしょう。


其の須(ひげ)を賁(かざ)る
『易経』山火賁(さんかひ)にある言葉
この卦は、飾るのは良いが、飾り過ぎるのは良くないという趣旨の卦。