原文】
性は諸を天に稟(う)け、軀殻は諸を地に受く。天は純粋にして形無し。形無ければ則ち通ず。乃(すなわ)ち善に一になるのみ。地は駁雑(ばくざつ)にして形有り。形有れば則ち滞る。故に善悪を兼ぬ。地は本(も)と能く天に承けて以て功を成す者、風雨を起して以て万物を生ずるが如き是れなり。又時有りてか、風雨も物を壊(やぶ)れば、則ち善悪を兼ぬ。其の謂わゆる悪なる者、亦真に悪有るに非ず。過不及有るに由りて然り。性の善と軀殻の善悪を兼ぬるとは亦此の如し。


【訳文】
人の本性は天から受け、身体は地から受けたものである。天はまじりけが無く、形というものも無い。形が無いので、どこへでも通ずることができる。それで、善一つになることができるのだ。地はごたごた入りまじっていて、形を具えている。形があるので通ぜず渋滞する。それ故に、地は善と悪を兼ねている。この地は、本来天から受けて地としての働きをするものである。風雨を起して万物を生成するが如きはこれである。また時には、風雨が物を破壊すれば、善悪を兼ねる。その悪というものも、真からの悪ではなく、過ぎたり及ばなかったりして、中正を得ないがためにそのようになるのである。本性が善(至善)であるのと、身体が善悪を兼ね具えているということも、またこれと同じようなものである。


【所感】
人の心は天から受け、身体は地から受けたものである。天は無形であるからすべてに通ずる。すなわち善と一体化している。地は不純物も混じった形有るものであるから滞る。それゆえに善悪双方を有している。とはいえ地は本来は天から受けて功を成すものであるから、風雨を起して万物に命を与える。しかし、時には風雨が物を破壊することがあり、こうなると善悪を兼ねていることになる。その悪も、真の悪ではなく、過ぎたり足りなかったりで適度なところを保てないからである。心が善で、身体は善悪を兼ねるというのも、またそれと同じであろう、と一斎先生は言います。


人の心は本来善である、という性善説に立ったお言葉ですね。


しかし前章で指摘されたように、形ある身体は安逸を求めるゆえに、時に悪をなすことがある。


身体の欲望を捨て去って本来の善をなす様、己を磨くのです。


これを中国古典の『大学』では、


明明徳


すなわち、


明徳を明らかにする


としています。


つまり学問をすることは、何かを身につけるのでなく、日常生活でいつの間にかこびりついた心の曇りを拭い、心の鏡をピカピカに光らせることなのです。


万物は全て(人間にとって)メリットとデメリットを有しています。


我々は自然の法則に逆らわない範囲でこのメリットを最大限に引き出す努力をするしかありません。


そしてこれは人と接する時もまったく同じであるように思います。