本来は本日第108日目を掲載するべきですが、第106章を飛ばして掲載していたことに気づきました。
そこで本日は第106日目として、第106章を掲載いたします。
失礼いたしました。



原文】
凡そ年間の人事万端、算え来れば十中の七は無用なり。但だ人平世に処(お)り、心寄する所無ければ、則ち間居して不善を為すことも亦少なからず、今貴賤男女を連ね、率(おおむ)ね無用に纏綿(てんめん)駆役せられて、以て日を渉れば、則ち念(おも)い不善に及ぶ者、或いは少なし。此も亦其の用ある処。蓋し治安の世界には然らざるを得ざるも、亦理勢なり。


【訳文】
だいたい、一年間の仕事は種々さまざまであるが、これを算(かぞ)えると十の中の七つは無用なことである。ただ人は平和な世の中にいて、心を寄せる所が無ければ、人にかくれてこっそりおると、悪いことをすることも少なくない。今の世の身分の貴い人も低い人も男も女も、大体無用のことで、それにまといつかれ、追いまわされて生活しておれば、悪いことをしようと考えることが少ない。これもまた無用の用といえる。思うに、平和な世の中においては、そうならざるを得ないことも、また自然のなりゆきといえる。


【所感】
およと一年間に行うことを数えてみれば、その七割は無駄なことをしている。しかし人は争いの無い平和な世の中にいて、心を奪われることがなく、暇を持て余すと悪いことをしてしまうものだ。身分の高下、男女に関係なく、みな無用なことに関わり、働かされて日々を過ごすと、悪いことを考えることも少なかろう。これも無用の用であって、平和な世界ではこれもまた自然の法則なのであろう、と一斎先生は言います。


大学に


「小人閑居して不善を為す」


という有名なことばがあります。


このことばが掲載されている章句全体を見ると、


小人閑居して不善を為す。至らざる所なし。君子を見て后(のち)として、その不善を揜(おお)いてその善を著す。人の己を視ること、その肺肝を見るがごとく然り。則ち何の益かあらん。これを中(うち)に誠あれば外に形(あらわ)るという。故に君子は必ずその独りを慎むなり。


とあります。


通解としては、


不徳の小人は間居独坐すれば、人目を憚ることなしと思い、不善をなしても一向構わない。君子にあった後はあわって覆い隠そうとし、俄かに善をなそうとする。ところが人を視ることは、その人の肺や肝臓を見透かしてしまうので、そんなことをしても全く無意味である。心に誠があれば外に表れるものである。(逆もまた真で、心に邪悪なものがあれば、それが面貌に表れてしまう。)だからこそ、君子は独りを慎む、つまり慎独を大切にするのである。


となるでしょうか。


小生のような正に小人にとっては、独りを慎むということが非常に難しいことに思えます。


誰も見ていないからまあいいか、と思ってしまうことが多々あるものです。


そういう意味では、一斎先生の仰るように、実は大したことをしているわけではないものの、常に忙しくしている方が、また人目に晒される環境に身を置く方が、善を為しやすいと言えそうです。


最近小生は、仕事以外にプライベートの活動を充実させています。


月に二回は塾生として学ぶ場に参加しており、月に一回は小生自身が古典を学ぶ読書会を主査しています。


これによって土日はほとんど家に居ない、つまり独りでいる環境がほとんどない環境を作り出しています。


その結果、大変充実した日々を送っていますし、悪いことを考えている暇など全くありません。


ただし、家族からは白い目で見られているようですが。。。