原文】
常人は平素一善の称すべき無くして、偶(たまたま)病篤きに及び、自ら起たざるを知り、遺嘱して乱れず、賢者の為(しわざ)の如き者有り。此は則ち死に臨みて一節の取る可きに似たり。然れども、一種死病の証候、或は然るを致すこと有り。是れ亦知らざる可からず。


【訳文】
普通一般の人で、平常何ら称賛すべき善行が一つも無いのに、たまに病危篤になり、自ら再起不可能を知ると、後事を遺言して少しも乱れた様子の無いのは、賢者のようである。これは臨終に際しての処置という一節だけがとるべき価値がある事のように思われる。しかし、一種の死病の症候として、こうなる者もあるからして、この事もまた知っておくべきである。


【所感】
凡人であって、平素はとくに称えるようなことのない人が、病気が悪化し、回復が望めないとなると、後のことを託して心を乱さずに、あたかも賢者のように振る舞うこともある。これは死に際しては称えるべき価値のある行動をしたと評することができる。しかし、病の症状として、こうしたことがあるということは知っておくべきである、と一斎先生は言います。


ここは解釈の難しい章です。


いわゆる聖人でも賢人でもない常人と呼ばれる人が、死に際しては立派に振る舞うことがあるが、それは病のなせる業だと理解すればよいのでしょうか?


これは、死を痛切に目の前に実感したとき、今まで心を覆ってきた濁りがすべて洗い落され、生まれた時の純粋な心(これを明徳あるいは良知などと呼びます)を取り戻すことができるからなのかも知れません。


しかし、一般的には死を前にしては、まだやり残したことへの後悔の念が生じてしまう人が圧倒的に多いでしょう。


かく云う小生も、今ここで命が消えるとしたら、後悔の念に駆られることは間違いありません。


この「死生観」について、森信三先生はこう仰っています。


われわれ人間は、自分の力を真に残りなく発揮し尽くすことによって、そこにおのずから死生一貫の道に合することができるのであります。同時にそれはまた生死を超越する一道でもありましょう。すなわち現在の自分としては、もはやこれ以上はできないというまで生に徹することによって、そこには、生命の全的緊張の中に、おのずから一種の悠々たる境涯が開かれてくるとも言えましょう。

かくして人間としては、もちろん一面からは長く生きたいには相違ないですが、同時にまたどうしても死なねばならぬとあれば、それもまた已むを得ないという、悠々たる心境になれるでもありましょう。

ここにおいてか、真に死を超える道とは、畢竟するに死に対する恐怖の消滅する道とも言えましょう。


生に徹して生きるとは、世の為人の為に自分の命を捧げきることです。


まだまだ小生は、いつ死んでも構わないという心境にはとてもなれません。


まずは残された人生を日々、己のベストを尽くして生きていくのみです。