原文】
学を為して門戸を標榜するは、只だ是れ人欲の私なり。


【訳文】
学問をするのに、かど口に看板をかかげてみせびらかすことは、ただ、自分だけの利益を貪る心に過ぎない。


【所感】
学問をして戸口に看板を掲げて誇示することは、私欲の表れである、と一斎先生は言います。


小生自身も「潤身読書会」という古典を活学すると銘打った読書会を主査しておりますので、これは耳の痛いお言葉です。


人はなぜ学問をするのか、という根本的な問いについては様々な偉人が独自の解釈をされています。


既に取り上げてはおりますが、その中でも代表的なものを2つご紹介しましょう。


一つ目は『荀子』にある言葉です。
(これについては何度も取り上げていますが、安岡正篤先生もご自身の唱えられた「聞学起請文」でも採用されている名文ですので、何度でも掲載したいと思います。)


君子の学は通ずるが為めに非ず。窮するとも困まず憂うるとも意の衰えず、禍福終始を知りて心の惑わざるが為めなり。


二つ目は、中江藤樹先生のお言葉です。(これも既出)


それ学は、人に下ることを学ぶものなり。人の父たることを学ばずして、子たることを学び、師たることを学ばずして弟子たることを学ぶ。よく人の子たるものはよく人の父となり、よく人の弟子たるものはよく人の師となる。自ら高ぶるにあらず、人より推して尊ぶなり。


共に学を誇ることを厳に戒めた名文と理解して良いでしょう。


孔子も『論語』の中でこう言っていますね。


子曰わく、古(いにしえ)の學者は己の爲にし、今の學者は人の爲にす。(憲問第十四)


少し聞きかじったことを、すぐに人に教えるというようなことでは、誰のための学問であるかがわからなくなる、ということでしょう。


これは学問をする人の社交場の注意としても、大変意義深いものだと言えそうです。