【原文】
今の儒は、今の釈を攻むること勿れ。儒は既に古の儒に非ず。釈も亦古の釈に非ず。
【訳文】
今の儒学者は今の仏教徒を非難してはいけない。今の儒学者は昔の儒学者とはちがう。仏教徒もまた昔の仏教徒とは異なっている。
【所感】
現在の儒者は、現在の仏教徒を非難してはならない。現在の儒者は古の儒者とは違う。仏教徒もまた古の仏教徒とは変質している、と一斎先生は言います。
ご承知のように一斎先生は儒学者ですから、この章句は同じ道を志す同志に対しての警鐘と捉えるべきでしょう。
ちなみに「釈」とは、釈尊(ブッダ)を指すものと思われます。
この章句において、一斎先生が何を言わんとしたのかについては、小生のような浅学の身では、理解できません。
非常に個人的な私見として、読んでいただきたいのですが、小生は儒教と仏教の違いを以下のように捉えています。
仏教 = 日々の生活において、わが身わが心をどう処するかという教え
儒教 = 立身出世を前提として、わが身わが心を律する教え
儒教の教科書のひとつである『大学』には、有名な
修身斉家治国平天下
という言葉があります。
これは、わが身を修めることから始めて最後には天下を平らかにしようという思想であり、そこに立身出世の強い意志を感じ取ることができます。
『論語』においても、孔子の門下の弟子たちの多くは、仕官することを目的として学びを深めています。
一方、仏教においては禅宗であれば、只管(ひたすら)座禅をする。あるいは真宗であれば、只管念仏を唱えることを教えられます。
そこに立身出世の色は微塵も感じられません。
これがゆえに、日本においては、仏教に変わって儒教が武家社会の規律となっていったのでしょう。
ところが一斎先生の時代になると、その様相も変わり、儒教は仏教化し、仏教は儒教化して、お互いが歩み寄り日本独自の思想へと浄化されてきたのではないでしょうか?
朱子学を興した朱熹は徹底的な排仏論を展開していたように、古の儒者は仏教を強く否定したのでしょう。
しかし現代においては、非難するには当たらないと一斎先生は考えたのではないか?
あくまで何の根拠も説得力も無い私見にお付き合いをさせてしまいました。
謹んでお詫び致すと共に、ご意見やご批判を頂ければ幸甚です。
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