原文】
枚乗(ばいじょう)曰く、「人の聞く無きを欲せば、言う勿きに若(し)くは莫(な)く、人の知る無きを欲することは、為すこと勿きに若くは莫し」と。薛文清(せつぶんせい)以て名言と為す。余は則ち以て未(いまだ)しと為す。凡そ事は当に其の心の何如を問うべし。心苟くも物有れば、己言わずと雖も、人将に之を聞かんとす。人聞かずと雖も、鬼神将に之を闞(うかが)わんとす。


【訳文】
枚乗が「人に聞かれたくないと望むならば、言わないにこしたことはない。また、人に知られたくないと思うならば、しないにこしたことはない」といっている。明代の儒者薛文清が、この語を名言であるとほめている(『従政名言』)が、私は、まだ十分でないと思っている。およそ物事は、それをなす人の心のいかんを問題にすべきであろうし、また人の耳に入らなくとも、鬼神がこれを窺い知ろうとするであろう。


【所感】
前漢の人である枚乗が「人に聞かれたくないと望むなら、自ら言わないにこしたことはない。人に知られたくないと望むなら、自ら行わないにこしたことはない。」と言った。明代の儒者である薛文清(せつぶんせい)が、このことばは名言だとしている。だが私は、まだ不十分だと思っている。およそ物事は、それをなす人の心の在り様が問題なのだ。かりにも心に一物を持っていれば、言葉を発せずとも、それは人の耳に届いたも同然である。また人の耳に入らなくとも、鬼神がこれを窺い知ることとなろう、と一斎先生は言います。


この章句は、一聴すると昨日の章句と矛盾しているようにも思えます。


つまり、心に思っても口に出さなければ、それで傲慢心や欲を抑えたことになるはずではないかと。


しかし一斎先生は、心を慎む(抑制する)ことをただ口に出さずに我慢するというレベルより一段上に見ているのでしょう。


ここで言う「鬼神」とは、昨日述べた「天知る。地知る」と同じ解釈だと見てよいと思います。


ここでも暗に独りを慎むことが推奨されていると見ることができます。


しかし、ここでも小生のような凡人はまず、枚乗の言うように、余計なことは言わない、人の眼につくような良くない行為を慎む、というところを意識した方が良さそうです。


その上で、一斎先生の仰るように、心の在り方を磨くためには何をすべきか?


その答えは、『言志四録』や『論語』といった古今の名著を学ぶこと、そして森信三先生が仰るように、偉人の伝記を読むことにあるはずです。