原文】
心は猶お火のごとく、物に著(つ)きて体を為す。善に著かざれば、則ち不善に著く。故に芸に遊ぶの訓は、特(ただ)に諸を善に導くのみならず、而も又不善を防ぐ所以なり。博奕の已むにも賢(まさ)るも亦此を以てなり。


【訳文】
人の心は喩えると火のようなもので、火が物につけば燃えるが如く、心が物につけば形体をなすものである。それで、心が善につかなければ、不善につくのである。それ故に、孔子が「芸に遊ぶ」といった教訓は、ただ人の心を善に導くだけでなく、それがまた不善を防ぐことともなる。なお、孔子が「双六や囲碁の遊びは、決して感心したものではないが、何もせずにいるよりもまさっている」と言ったのも、この理由からである。


【所感】
人の心はまるで火が物に燃え移るようにしてその存在を知らしめる。心が善につかなければ、不善につくようになる。よって、『論語』述而篇にある「芸に遊ぶ」という教訓は、ただ善に導くというだけでなく、不善から遠ざけることにもなるのだ。同じく『論語』の陽貨篇にある「博奕の已むに賢る」という教訓も同様のことを教えているのだ、と一斎先生は言います。


ここで引用されている『論語』の章句を詳しくみておきます。


まずは述而第七篇から


【原文】
子曰わく、道に志し、徳に據(よ)り、仁に依り、芸に遊ぶ。


【訳文】
先師が言われた。
人として正しい道に志し、これを実践する徳を本とし、仁の心から離れないようにする。そうして世に立つ上に重要な芸に我を忘れて熱中する。(伊與田覺先生訳)


この「芸」とは、六芸(りくげい)すなわち、礼・楽・射・御・書・数を指すとのことです。


続いて陽貨第十七篇です。


【原文】
子曰わく、飽くまでも食(くら)いて日を終え、心を用うる所無きは、難いかな。博奕なる者有らずや。之を爲(な)すは猶已むに賢れり。


【訳文】
先師が言われた。
腹一杯食べて一日中ぼんやりしているようでは困ったことだねぇ。双六や囲碁などのかけごとがあるではないか。まあそれでもする方が、何もしないよりはましだ。(伊與田覺先生訳)


つまり人の心は何もしていないと悪いことを考えてしまうものであるから、それならばちょっとした勝負事(いわゆる博打とは違います)をする方がまだしも良い。しかし君子や賢者を目指すのであれば、なにより学問をしっかりしなければならない、ということを一斎先生は仰っているのです。


小生の経験でも、暇な時は意外と碌なことを考えないものです。


先日来何度もとりあげている「慎独」とは、こうした独りで思索に耽るときでも道から外れないことを言うのですが、そのためにはしっかりした学問をしなければ、とてもそうしたレベルには到達できません。


二度とない人生だからこそ、死ぬまで学び続け、死して朽ちない人間を目指しましょう。