原文】
禹は善言を聞けば則ち拝す。中心感悦して、自然に能く此の如し。拝の字最も善く状(あらわ)せり。猶お膝の覚えずして屈すと言うが如し。


【訳文】
聖天子禹は、自分に誡めとなるよい言葉を聞くと、その人を礼拝した。これは心からよろこびを感じて、自然にこのようにしたのである。拝という字が最もよくその状態を表現している。それはあたかも、膝が自然とかがむというようなものである。


【所感】
夏王朝を開いた聖人の禹は、善い言葉を聞くと、その人に深くお礼をしたという。真心から悦び感謝して、自然とそうした行為に至ったのであろう。「拝」という字はそのことをよく表現している。膝が自然と折れるというものである、と一斎先生は言います。


人の諫言(忠言)を素直に聞き入れるということは、容易にできることではありません。


小生などは、メンバーから間違いを指摘されると、苦しい言い訳をしたり、あるいは強引に言い負かせてしまったという経験が何度もあります。


本当に恥ずかしく、情けないことですが、今でもこれを完全に克服できているわけではないでしょう。


ところが聖天子の禹は、そうした言葉を聞くと、自然とその相手に対してお礼をしたというのです。


こういう人を本当の君子と呼ぶのでしょう。


ちなみに、禹は治水に大きな功績があり、舜帝から帝位を禅譲されて夏王朝を開いたと言われており、中国における聖人のひとりに数えられています。


さて、この禹に関する記述は『孟子』公孫丑上篇にあります。


そのまま引用しておきましょう。


【原文】
孟子曰く、「子路は人之に告ぐるに過ち有るを以てすれば、則ち喜ぶ。禹は善言を聞けば、則ち拝す。大舜(たいしゅん)は焉(これ)より大なる有り。善、人と同じうし、己を舎てて人に従ひ、人に取りて以て善を爲すを楽しむ。耕稼陶漁(こうかとうぎょ)より、以て帝と爲るに至るまで、人に取るに非ざる者無し。諸を人に取りて以て善を爲すは、是れ人と善を爲す者なり。故に君子は人と善を爲すより大なるは莫し」


【訳文】
孟子のことば「孔子の門人の子路は、他人から自分の犯した過失を指摘されると、喜びの色が顔に現れた。夏の禹王は、よいことばを聞くと拝して受けた。(いずれも常人には難しいことだが)偉大なる帝舜はもっと大人物で、善はすべてこれを私せずに人とともにし、人に善あれば己を捨てて私心なく人に従い、他人から善を取って行うことを楽しみとした。すなわち彼が微賤にして耕作・陶業・漁業をしていたころから、帝堯に認められて天子となるまで、すべて人から取り入れないものはない。かように人から取り入れて善を行うのは、つまり人とともに善をなすことである。ゆえに、有徳の君子としては、人とともに善をなすよりも偉大なことはないのである」(宇野精一先生訳)


小生が愛して止まない孔子の一番弟子である子路が人から諌められると喜んだという記述を読むと嬉しくなります。


子路も禹王も偉大ですが、さらに偉大なのは舜帝であって、常に人とともに善を為したということです。


これは言いかえれば素直であったということでしょう。


松下幸之助翁は、素直であることを三十年続けてようやく素直の初段になれる、と仰っています。


まだ遅くはありません。


素直に人とともに善を為す人間になりましょう。