原文】
人心惟れ危ければ、則ち堯舜の心、即ち桀紂なり。道心惟れ微なれば、則ち桀紂の心、即ち堯舜なり。


【訳文】
私欲のために人間の心が危険な状態になると、聖人堯舜のような立派な心をもった人でも、悪逆無道な暴君桀・紂のような人物となる。反対に、欲心のない清浄心が少しでもあれば、桀紂のような心の者でも、堯舜のような心の人になる。


【所感】
心に物欲がはびこり危うい状態となれば、聖天子の堯や舜のような心の持ち主でも、暴君と呼ばれる夏の桀王や殷の紂王のようになってしまう。道心(正しい道を求める心)は得難いものではあるが、それが少しでもあれば、桀王や紂王のような心の持ち主でも、堯や舜のような人間となれるのだ、と一斎先生は言います。


ここに出て来る言葉は元々は、『書経(尚書)』の「大禹謨」に掲載されています。


その部分を抜き出してみましょう。


【原文】
人心惟(こ)れ危く、道心惟れ微なり、惟れ精惟れ一、允(まこと)に厥(そ)の中(ちゅう)を執れ。


【訳文】
人間的な心は安定しにくく、道にかなった心は明らかにしにくいから、純粋精一につとめて、心から中庸の道をとり守るようにせよ。(小野沢精一先生訳)


『書経』によると、この言葉は元々堯が舜に帝位を禅譲する際に、「允(まこと)に厥(そ)の中を執れ」と伝えたものを、舜がさらに噛み砕いて禹に伝えたとあります。


要するに、人心(物欲の心)を抑えこみ、道心という理想の境地を常に目指すことを「中を執る」という言葉で現していると理解して良いでしょう。


さらに、この言葉は孔子の孫の子思が書いたと言われる『中庸』においても、序文でそのまま引用され、「中」であることの必要性が説かれています。


この道心と人心について、明の儒者である王陽明先生は以下のような解説をしています。


道心なる者、性に率(したが)ふの謂にして、未だ人に雑(まじわ)らず、無声無臭、至微にして顕、誠の源なり。人身ならば、則ち人に雑りて危し、偽の端なり。(中略)
惟れ一とは、道心に一たるなり。惟れ精とは、道心の一ならずして或ひはこれを二とするに人心を以てするを慮るなり。道、中ならざるなく、道心に一たりて息まず、是れを允に厥の中を執れと謂ふ。『重修山陰県学記』


つまり、まだ人為的なものが雑っていない状態を道心といい、人為的なものが雑った状態を人心というということでしょう。そして、人心が正しさを得た場合が道心であり、道心が正しさを失った場合が人心なのであって、もともと二つの心がある訳ではないということのようです。


さらに朱子の弟子である蔡沈という学者もこう言っています。


人心は私におち入り易く、公になりがたい、故に危い。道心は明らかにしにくく、昧(くら)くなり易い。故に微である。


小生のような凡人はいうまでもなく人心を強く懐いて生活をしています。


だからこそ、こうして一斎先生に学び、孔子に学ぶことで、少しでも人心を抑え、道心を得ようともがき苦しんでいるわけです。