原文】
惻隠の心偏すれば、民或いは愛に溺れて身を殞(おと)す者有り。羞悪の心偏すれば、民或いは自ら溝瀆(こうとく)に経(くび)るる者有り。辞譲の心偏すれば、民或いは奔亡(ほんぼう)して風狂する者有り。是非の心偏すれば、民或いは兄弟墻に鬩(せめ)ぎ、父子相訴うる者有り。凡そ情の偏するは、四端と雖も、遂に不善に陥る。故に学んで以て中和を致し、過不及無きに帰す。之を復性の学と謂う。


【訳文】
あわれみ痛む惻隠の心が、一方にかたよると、民衆の中には愛情に溺れて身を亡す者があるであろう。己の不善を恥じ、人の不善を憎む羞悪の心が、一方にかたよると、民衆の中には溝の中で首をくくって死ぬ者があるであろう。辞退して人に譲る辞譲の心が、一方にかたよると、民衆の中には逃げ走って狂人のような者がでるであろう。正邪善悪を判別する是非の心が、一方にかたよると、民衆の中には、兄弟喧嘩をしたり、または親子が互いに訴訟をするような者があるであろう。このように感情が一方にかたよると、孟子のいう四徳の萌芽までが、遂によくないことになってしまうのである。それ故に、学問をして、性情を中正にし、過不及の無いようにする。これが宋儒のいう復性(本性に復帰する)の学というものである。


【所感】
他者に強く同情する心が度を過ぎれば、民は愛に溺れてかえって身をダメにする者もあろう。悪を憎む心が度を過ぎれば、民は溝の中で首をくくる者もあろう。譲ってへりくだる心が過ぎば、奔走して狂人のようになるものもあろう。正しいことと間違っていることを判断する心が過ぎると、兄弟で争ったり、親子の間で訴訟を起こしたりする者もあろう。すべてあまりにも偏った心の持ちようでは、孟子が提唱した四端の心といえども、最後にはよくない結果をもたらすものだ。だからこそ、学問をして常に中庸を保ち、過不及のない状態であらねばならない。これを人間本来の本性に復帰する学問というのだ、と一斎先生は言います。


四端とは、以前にも紹介しましたが、以下の四つのきざし・前兆を意味します。


「惻隠の心」(かわいそうだと思う心)
「羞悪の心」(悪を恥じ憎む心)
「辞譲の心」(譲り合いの心)
「是非の心」(善悪を判断する心) (守屋洋先生)


人は生まれながらに善であるとする、孟子の性善説を裏付けるこの四端といえども、度を過ぎてしまえば危険なものとなるのだ、と一斎先生は仰るのです。


たとえばリーダーシップに関連づけて理解してみますと、


メンバーに優しくすることは良いことですが、優しすぎれば過保護となってかえって独り立ちさせることから遠ざけてしまうでしょう。


同様に、あまりに厳しく悪を取り締まれば、誰もついてこなくなるでしょう。
清濁併せ呑むことが人の世で生きる秘訣でもあるのです。


あるいは、メンバーに仕事を任せたとしても、リーダーが責任を取ることを放棄してしまっては、メンバーは思い切った仕事ができません。


また、なんでもかんでも白黒はっきりさせようとすれば、メンバーは失敗を恐れて積極性を失うはずです。


このように本来良いとされること(心)も、度を過ぎれば期待する方向とは間逆の結果を生んでしまいます。


孔子も、


過ぎたるは猶及ばざるがごとし


と仰っています。


日々学び、三省して、中庸を保つ努力をし続けなければなりませんね。