原文】
情の本体は即ち性なれば、則ち悪の本体は即ち善なり。悪も亦之を性と謂わざる可からず。


【訳文】
感情の本体(四端)が本性であれば、悪を起す本体は善といえる。それで、悪も本性と言わなければならない。


【所感】
前章で触れた悪の本となる情(四端)の本体が、人間が本来もっている性であるならば、悪の本体は善である。悪もまた人間の本性なのだと言わざるをえない、と一斎先生は言います。


善と悪はまったく別物だというのではなく、情が中庸を保っている状態が善であり、極端に発揮された場合に悪となる、ということを意味しているようです。


性善説の本質に触れている言葉だと解釈できます。


この考え方は宋儒に特有のものであるようです。


『河南程氏遺書』(北宋の程明道、程伊川兄弟の語録集)には、こうあります。


善は固より性なり。然るに悪もまたこれを性と謂はざるべからず。


一斎先生が、この言葉を参考にしていることは疑いようがありません。


この考え方によれば、生まれながらの善人や悪人などは存在せず、ただ心の在り方次第で人は善人にも悪人にもなる、と言えるのではないでしょうか。


心理学者のアルフレッド・アドラー博士はこう言っています。


同じ環境に育っても、人は自分の意思で、違う未来を選択できるのだ。


つまり、親に捨てられたという過去をもつ人が、それを理由に殺人犯になることもできれば、自分と同じ苦しみを経験させないようにと孤児の自立支援に動くこともできるということです。(『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』小倉広著、ダイヤモンド社より)


今の自分は過去の自分の選択の結果であって、未来の自分は今の自分の選択によって決まるのです。


これが性善説に対するひとつの解釈であり、善も悪も同じ心の働き(作用)に過ぎないということでしょう。


学問を修め、実践するというサイクルを回し続け、どんな環境においても善を選択できる人でありたいものです。