原文】
経の用に妙なる処、是れ権なり。権の体に定まる処、是れ経なり。程子の「権は只だ是れ経」の一句、詮(と)くこと極めて妙なり。


【訳文】
経(不変の道理)をうまく運用されると、これが権ということである。権のもとづくところは経である。宋代の儒者程子が「権はただ是れ経」といったこの一句は、大変妙味があるといえる。


【所感】
経すなわち不変の道理がじょうずに使いこなされる場合、それが権すなわち臨機応変の謀(はかりごと)である。権が導きだされる根拠となっている基本的な筋道が経である。北宋の儒者である程子の「権は只だ是れ経」という言葉が説くところは極めて深いのである、と一斎先生は言います。


非常に難解な章句です。


一斎先生は、『周易欄外書』でも、


経・権は一なり。時中を得るものは皆典礼なり。踏むべき常道に非ざるはなし。


と述べておられます。


見事な策略は、宇宙の摂理に則っているものであるから、言うならば宇宙の摂理そのものだと言って差支えない、という解釈で良いでしょうか。


宋学(宋代の儒教)以来、中国儒学の骨格をなすのが、体と用(本体と作用)の考え方なのだそうです。


この章でいえば、体は経、用は権ということになります。


前章であれば、性が本体つまり体であり、情がその発用すなわち用だと言えます。


用は体から発現するものであるから、体そのものであり、体は用を生む本であるから、用と同一のものである、という考え方のようです。


哲学的解釈に深く立ち入ることは、このブログの本意ではありません。


ここでは、結局正しい行いや考え方というもの(作用)は、宇宙の摂理(本体)に則ったものとなるのであるから、宇宙の摂理に逆らっては、事を起したところで首尾よくいく道理が無い、という解釈に留めておきたいと思います。