原文】
坤(こん)厚く物を載す。人当に之を体すべし。喪を哀み祭を敬するも、亦一厚字の裏面より出で来る。


【訳文】
『易経』に「大地は厚くして、その上に万物を載せている」とある。人間もこれを身につけて、人情が厚くなければいけない。人の死を悲しみ、祭を行って敬うことも、厚という字の裏面から出て来るのである。


【所感】
『易経』坤爲地の卦に「坤は厚うして物を載す」とある。これは大地は広くして厚く、動物、植物、鉱物など万物を載せている、という意味である。人間もこれを体得すべきである。葬儀を悲しみ、祭を敬するのも、同じく人間の厚さから生まれてくるのである、と一斎先生は言います。


一斎先生が引用されている『易経』の該当部分を掲載しておきます。


【原文】
彖(たん)に曰く、至れるかな坤元、万物資(と)りて生ず。乃ち順にして天に承く。坤厚くして物を載せ、徳は彊(かぎりなき)に合す。弘を含み大を光(かがや)かして、品物ことごとく亨る。牝馬は地の類。地を行くこと无し。柔順利貞は、君子の行うところなり。先んずれば迷いて道を失い、後(おく)るれば順にして常を得。「西南に朋を得」とは、乃ち類と行うなり。「東北に朋を喪(うしな)う」とは、乃ち終(つい)に慶びあるなり。「貞に安んずれば之れ吉(きつ)」とは地の无きに応ずるなり。


【訳文】
彖伝に言うには、至極りっぱなものであるよ、坤元すなわち坤が物を始める徳は。万物は坤元の徳を取り入れてはじめて形を生ずるのである。坤元はきわめて柔順にして天の徳たる気の始まりを十分に受け入れる。坤すなわち地は広く厚い徳をもって動物・植物・鉱物などあらゆる物をその上に載せ、その広く厚い徳はまさに乾(天)の盛大かぎりなき徳と配合する。広大を包容し、広大を輝かせる。万物はすらすらと伸びて盛んに生長するのである。雌馬は陰類で、陰に属する地と同類である。雌馬は地上をどこまで行っても疲れることがない。柔和従順であって、乾の道に従って正しき所に安んじ、これを持続してやまないのは、君子のまさに学び行うところの道である。もし陰が陽の先に立てば必ず迷うて道が分らなくなる。陰が陽の後れ、陽に従って行けば従順にして必ず先達が得られて坤の常道に違わない。坤の卦辞に「坤の方角たる西南に仲間が得られる」というのは坤の仲間といっしょに楽しく仕事をすることができるということである。「東北に朋を喪う」といってあるのは、(陽の方角たる東北では坤の仲間が得られず、坤の仲間といっしょに仕事をする楽しさはないが、乾を先達とすることができ)夫妻君臣相得て喜び、家や国はその福慶を被ることをいうのである。また卦辞に「貞に安んずれば之れ吉」とあるのは、それは坤の表象である地の際限ない徳に合致するものである。(鈴木由次郎先生訳)


冒頭の一斎先生の章句はかなり難解ですが、要するに、大地というのは天の力(徳)を承けて、万物を生む母のような存在である。人も同じように先達の恩恵を受けて、己の力を発揮することが良いのであって、何事も先頭に立とうとすれば、かえって失敗をすることになる、ということを述べているようです。


森信三先生は、


生身の師をもつことが、求道の真の出発点


と仰られています。


さらに、


畏友と呼びうる友をもつことは、人生の至楽の一つといってよい


とも言われております。


人生を楽しく、また意義深く過ごすためには、生身の師(すなわち乾あるいは天)を得て、その恩恵を受けつつ、畏友と共に学びを深めていかねばならないのでしょう。


そのような人生を生きることができれば、世間からは母なる大地(すなわち坤)のような存在だと見てもらえるはずですね。