原文】
凡そ事を作(な)すには、当に人を尽くして天に聴(まか)すべし。人有り、平生放懶怠惰(ほうらんたいだ)なり。輒ち人力もて徒らに労すとも益無し。数は天来に諉(ゆだ)ぬと謂わば、則ち事必ず成らず。蓋し是の人、天之が魄(たましい)を奪いて然らしむ。畢竟亦数なり。人有り、平生敬慎勉力なり。乃ち人情は尽くさざる可からず。数は天定に俟つと謂わば、則ち事必ず成る。蓋し是の人、天之が衷(ちゅう)を誘(みちび)きて然らしむ。畢竟亦数なり。又人を尽くして而も事成らざるもの有り。是れ理成る可くして数未だ至らざる者なり。数至れば則ち成る。人を尽くさずして而も事偶(たまたま)成るあり。是れ理成る可からずして、数已に至る者なり。終には亦必ず敗るるを致さん。之を要するに皆数なり。成敗の其の身に於いてせずして其の子孫に於いてする者有り。亦数なり。


【訳文】
人が何か事をなすには、人力の限りを尽くして後に天運にまかすべきである。ここに人がいるが、この人は平生わがままで怠け者である。「どれだけ働いてもなんの益も無い。運命は天にまかす」といっていては、何事も成功しないことはきまっている。思うに、このような人は、天がこの人から魂を奪い取って、このようにさせたので、つまり、これもまた定まった運命である。ここにまた人がいるが、この人は、平生とても慎み深く勤勉である。「人のなすべき道理は、どんな場合でも尽くさなくてはいけない。運命は天の定めに従う」といっているので、何事も必ず成功する。思うに、このような人は、天がその人の心を誘い導いてこのようにさせたので、つまりこれも運命である。しかしながら、人事を尽くしても成功しないことがある。これは道理の上からいえば成功すべきであるが、まだ天運が至らないからであって、天運が到来すれば成功するのである。これと反対に、人事を尽くさなくとも、偶然にも成功することがある。これは道理の上からいえば成功しないはずであるが、運命がすでに到来していたのであって、そういうのは、終には必ず失敗するのである。


【所感】
何か事をなすには、人事を尽くして天命を待つべきである。 ある人間はは平生だらしなくて怠け者であった。一所懸命に力を用いてもなんの益も無い。運は天にまかせるといっていては、何事も必ず不成功に終わる。思うに、このような人は、天がこの人から魂を奪い取って、このようにさせたのであり、これもまた運命である。別のある人は、平生とても慎み深く勤勉である。人としてなすべき道理は、どんな場合でも尽くさなくてはいけない。ただし運は天の定めに従うといっているので、何事も必ず成功する。思うに、このような人は、天がその人の心を誘いだしてこのようにさせたので、つまりこれも運命である。しかしながら、人事を尽くしても成功しない人もいる。この人は道理の上からいえば成功すべきであるが、まだ天運が来ていないからであって、天運が到来すれば成功するのである。これと反対に、人事を尽くさなくとも、たまたま成功することがある。これは道理の上からいえば成功しないはずであるが、運がそこに来たのであって、そんな人は、最後は必ず失敗するものだ。要するにみんな運命なのである。事の成敗がその人の代には表われないで、その人の子孫の代になってから、表われることもある。これも又運命である、と一斎先生は言います。


一昨日、昨日に引き続き運命と立命のお話です。


幸運は準備と機会が巡り合ったときに訪れる。


とは、セネカの言葉ですが、一斎先生も同じ事を仰っているようです。


つまり成功には二つの要素、準備(努力)と機会(天運)とが必要であるということです。


それではいくら努力しても無駄ではないか、という人がいるかも知れませんが、まずは努力をしてはじめて成功という宝くじにエントリーできるということです。


仮に自分自身の一生のうちには、幸運が訪れなくとも、その死後に子孫が繁栄するという場合もあるので、短い期間で幸か不幸かを判断してはいけないのでしょう。


『易経』坤、文言伝には人口に膾炙した下記のようなことばがあります。


【原文】
積善の家には必ず余慶有り。積不善の家には必ず余殃有り。


【訳文】
善行を積み重ねた家には必ず(先祖の良い行いの結果が子孫に及ぶ)幸せが訪れる。不善を重ねた家には必ずその報いとして(先祖の悪い行いの結果が子孫に及ぶ) 不幸が訪れる。


昨日も記載しましたが、私たちがなすべきことは、まずは己の誠を尽くすことです。


その上で天命を待つのです。


天命は必ず訪れるのですが、それが自分自身の死後であるかも知れないということは、しっかりと心に刻んでおかないといけませんね。