原文】
自ら彊(つと)めて息(や)まざるは天の道なり。君子の以(な)す所なり。虞舜の孳孳(じじ)として善を為し、大禹の日に孜孜せんことを思い、成湯の苟(まこと)に日に新たにし、文王の遑暇(こうか)あらざる、周公の坐して以て旦を待てる、孔子の憤を発して食を忘るるが如き、彼の徒らに静養瞑坐を事とするのみなるは、則ち此の学脈と背馳(はいち)す。


【訳文】
昼夜の別なく勉めて休むことなく続けているのは天の道であり、またこれが君子の道なのである。喩えてみると、聖王舜が朝早く起きて善をなそうと勤めたのも、夏の禹王が日々善をなそうとしたのも、殷の湯王が「日々その徳を新たにせん」といったのも、周の文王が善をなす以外は寸暇がなかったのも、周公(周代の礼楽制度を定めた聖人)が善政を行なうため夜中良い考えが浮ぶと夜明けを待って実行に移したのも、孔子が道を修めるため発憤して食事まで忘れたのも、皆自ら彊めて息まない天道に従ったものである。かのいたずらに静かに心身を養い眼をつぶっている事だけをなすべき事とするのは、この学問の流派とは相反するものである。


【所感】
自ら勉めて休むことなく動いているのが天の道である。そしてそれは君子の踏むべき道でもある。たとえば、舜帝が朝から晩まで善行をなそうとしたのも、夏の禹王が日々一所懸命に善を尽くそうとしたのも、殷の湯王が日々徳を新たにすると記したことや、周の文王が朝から晩まで食事をする暇がなかったということや、周公旦が夜中に良いことを思いついたときは、朝を待って即実行に移したことや、孔子が学ぶことのために発憤して食事をするのも忘れて努力したということなどは、その例といえるであろう。ただ徒に静かに心身を養い、眼を閉じて坐っているだけで良いとする考え方は、吾々の学はとは全く相容れないものなのだ、と一斎先生は言います。


この章では、儒教は行動の学問、実践の学問だということを一斎先生が宣言しています。


ここで掲載されている各聖人のエピソードは、『孟子』・『書経』・『論語』から取られています。


今回はボリュームの都合上、孔子と孔子のアイドルである周公旦のエピソードをここに掲載します。


【原文】
孟子曰く、禹は旨酒を惡んで、善言を好む。湯は中を執り、賢を立つること方無し。文王は民を視ること傷つけるが如く、道を望むこと未だ之を見ざるが而(ごと)し。武王は邇(ちか)きに泄(な)れず、遠きを忘れず。周公は三王を兼ね、以て四事を施さんことを思う。其の合せざる者有れば、仰ぎて之を思い、夜以て日に繼(つ)ぐ。幸ひにして之を得れば、坐して以て旦を待つ、と。


【訳文】
孟子がいうに、「禹王は美酒を悪んで善言を好んだ。湯王は過不及のない中庸の徳を執り守り、賢者をとり立てるについては、その身分などを問わず、賢徳のある者は誰でもとり立てた。文王は民を視ることあたかも傷つける者をあわれみいたわるようであり、また正しい道を望むことは、まだ見ない者を見ようと願うがようであった。武王は、親近者だからと言って、狎れて粗略に扱うようなことはなく、また遠い所の者だからと言って、忘れて放っておくようなことはしなかった。周公は、以上の禹・湯・文・武の三代の王を一人で兼ね合わせ、これら四聖王のやられたことを、自分の天下に施そうと思った。そして四聖王のやられたことの中に、当時の社会には合わないものがある時には、どうして適合させようかと、天を仰いでこの事を思い考え、夜を日に継いで考えた。こうした結果、幸いにしてその方法を見出した時には、早くそれを実行しようとして、坐ったままで夜の明けるのを待ったほどである。」と。(内野熊一郎先生訳)


【原文】
葉公(しょうこう)、孔子を子路に問う。子路對えず。子曰わく、女(なんじ)奚(なん)ぞ曰わざる、其の人と爲(な)りや、憤を發(はっ)しては食を忘れ、楽しんでは以て憂いを忘れ、老の将に至らんとするを知らざるのみと。


【訳文】
葉公(楚の葉県の長官)が、先師の人柄について子路に尋ねたが、子路は答えることができなかった。
先師はそれを聞かれて言われた。
「お前はどうしてこのように言わなかったのか、『道を求めて得られないちときには自分に対していきどおりを起して食事を忘れ、道を会得しては楽しんで心配事も忘れ、そこ迄老いが迫っているのも気付かないような人だ』とね」(伊與田覺先生訳)


この二つの文章を読むだけで、孔子の情熱やひたむきさと何故周公に憧れを抱くのかがわかるように思います。


さてこうした事例を挙げた上で、本来の儒教というものはただ心静かに目を閉じて坐っているような学問であってはいけない、と一斎先生は断じます。


このとき一斎先生が批判の対象としているのは朱子学だと、相良亨先生・溝口雄三先生はご指摘されています。(『日本思想大系 佐藤一・大鹽中齋』より)


すでに何度も記載しておりますが、一斎先生は今でいう東京大学に当る幕府の最高学府である昌平黌のトップだった人です。


そして幕府の正規の学問は朱子学です。


あえて朱子学が頭でっかちの行動を伴わない学問となることに警鐘を鳴らしている言葉なのです。


ここに一斎先生の教育に対する覚悟を読み取ることができます。


こうした学問に対する真摯な姿勢、また逆風をも恐れない覚悟があったからこそ、その門下から佐久間象山ら陽明学派の大人物を輩出しています。


一斎先生のこの覚悟があったからこそ、明治維新はもたらされたと考えても決して行き過ぎではないでしょう。


トップに立つ者、特に教育や政治といった中庸の徳が特に重んじられる世界で人の上に立つ人は、この一斎先生の姿勢を大いに見習わなければならないはずです。