原文】
聖人は清明躬に在りて、気志神の如し。故に人の其の前に到るや、竦然(しょうぜん)として敬を起し、敢て褻慢(せつまん)せず、敢て諂諛(てんゆ)せず。信じて之に親しみ、尽く其の情を輸(いた)すこと、鬼神の前に到りて祈請するが如きと一般なり。人をして情を輸さしむること是の如くならば、天下は治むるに足らず。


【訳文】
聖人の身体には、清くて明らかな心が宿っていて、その心持は神のようである。それ故に、人が聖人の面前に出ると、恐れ慎んで自然と念を起し、あえて慣れあなどることもせず、またあえて媚びへつらうこともしない。心から信頼して親愛の情をいだき、真心を捧げ尽くすのである。それはあたかも、鬼神の前に出てお祈りをするのと同様である。人をしてこの様に真情を捧げ尽くさせるようになると、天下を治めることは、なんの造作もなく容易である。


【所感】
聖人は清く明るい気を身に充満させ、その気のはたらきは霊妙で神のようである。それゆえ人がその前に立てば、おそれ慎んで尊敬の態度を示し、間違ってもなれなれしかったり、媚び諂うような態度をとるようなことはない。その人を信頼してよく懐き、その真情を発露するのは、鬼神の前で祈りを捧げるのと同じである。このように人の真情を発露させることができれば、天下を治めることなどたやすいものだ、と一斎先生は言います。


儒教の経典である四書のひとつ『大学』には有名な『大学』の八条目があります。


すなわち、


格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下


がそれです。


この中の後半の4つの条目は特に有名であり、要するに世の中を太平に治めたいと思うのであれば、まずは己の身を修めることから始めよ、という教えです。


本日の一斎先生のお言葉は、まさにこれを述べておられるようです。


つまり、我が身を清明に保つことができれば、特別な指示などせずとも、人々は勝手に敬意を抱き、親しみ、真心を尽して各自のなすべきことをやってくれるものであるから、天下を治めたいと欲するならば、聖人のように我が身を清明に保つべし、と仰っているのです。


『論語』にも以下のような教えがあります。


【原文】
子曰わく、其の身正しければ、令せずして行なわれ、其の身正からざれば、令すと雖も従わず。(子路第十三篇)


【訳文】
先師が言われた。
「上にある者が、正しければ、命令しなくともよく行われ、正しくなければ、どんなに厳しい命令を下しても、民はついてくるものではない」


これがいわゆる孔子の徳治主義です。


かつての小生は、これと真逆のマネジメントをしていました。


厳しいルールを課し、時に怒鳴りつけることで、メンバーを無理に従わせてきたのです。


そんなやり方をしていれば、必ず最後は破たんを来たします。


我が身を清明に保つことは容易なことではありませんが、君子(立派な人)を目指すのであれば、常に意識しておくべきことであることは間違いありません。