原文】
人は当に往時に経歴せし事迹(じせき)を追思すべし。某の年為しし所、孰れか是れ当否、孰れか是れ生熟、某の年謀りし所、孰れか是れ穏妥、孰れか是れ過差と。此れを以て将来の鑑戒(かんかい)と為せば可なり。然らずして、徒爾(とじ)に汲汲営営として、前途を算え、来日を計るとも、亦何の益か有らん。又尤も当に幼穉(ようち)の時の事を憶い起すべし。父母鞠育乳哺(きくいくにゅうほ)の恩、顧復懐抱(こふくかいほう)の労、撫摩憫恤(ぶまびんじゅつ)の厚、訓戒督責の切、凡そ其の艱苦して我を長養する所以の者、悉く以て之を追思せざる無くんば、則ち今の自ら吾が身を愛し、肯(あえ)て自ら軽んぜざる所以の者も、亦宜しく至らざる所無かるべし。


【訳文】
人は過去において自分が経験した事柄を思い出してみるべきである。ある年に自分がなした事は、どちらが正しかったか、正しく無かったか、どちらが不十分であったか、十分であったか、ということを考え、さらに、ある年に自分が計画した事は、どちらが穏当であったか、出過ぎていたか、ということを考えて見る。こうして将来の手本とし戒めとするのが望ましい。そうせずに、ただ徒らにこせこせとあくせくして、まだ来ない先ざきの事を考え計算したとて、それが何の益になろうか、まったくむだなことである。また、人は自分が幼少であった時の事を思い出してみるべきである。父母が自分を養い育てたり乳を飲ませてくれた恩、何度も振り返って自分をいたわってくれたり、懐に入れたり、抱いてくれたりした苦労、撫でさすってくれたり、可愛がってくれたりした厚い情、教えさとし戒めてくれたり、責めなじったりしてくれた親切志など、およそ父母が艱難辛苦を重ねて、自分を成長させ養育してくれた事なで総てを思い出してみるならば、いま自分がわが身を大切にし、軽はずみなことをしないということも、また十分に行き届かない所が無いようになるだろう(十分行き届くようになる。)


【所感】
人は過去に経験した事柄を思い起こすべきである。ある年に自分がしたことはどれが正しく、どれが間違っていたのか。どれが十分でどれが不十分だったのか。ある年に自分が計画したことは、どれが穏当で、どれが過ちであったのかと。そうすることで将来への戒めとすれば良いことである。ところがそうではなくて、ただせわしなく慌しくして、未来を勝手に予測したり計画したところでなんの益があろうか。また人は特に幼少期を思い起こすべきである。父母が自分を養い乳を与えてくれた恩、子を案じて何度も振り返り抱きかかえてくれた労力、なでたりさすったり、不憫がっていつくしんでくれた厚情、教え諭したり、いましめただしてくれた切実な思いなど、父母が艱難辛苦して自分を養い育ててくれたことなどをすべて思い出してみれば、現在我が身を愛し、軽んじることことのないようにすることも、当然のこととして捉えることができるであろう、と一斎先生は言います。


これは非常に重要な教えではないでしょうか。


まだ来てもいない、あるいは来ないかも知れない未来を憂いても無意味なだけである。


そんなことをするくらいなら、過去に自分が何を行い、何を得たかを考え、またいかに父母が自分のために尽くしてくれたかを思い、今なすべきことに己を尽くせ、と一斎先生は熱いメッセージを送ってくださっているのです。


『論語』の中では常に孔子に厳しく叱責を受けている宰予という高弟がいます。


言語には宰我・子貢


と称えられた立派な弟子でありながら、『論語』ではいつも叱られています。


あるとき宰予は、親の死に対する服喪の期間を三年とするのは長すぎはしないかと孔子に訴えます。


それに関して問答をした後、孔子はお前がそうしたいなら好きにしなさいと突き放します。


そして宰予が去った後に、寂しさをこらえてこう言うのです。


【原文】
子曰わく、予の不仁なるや。子生まれて三年、然る後に父母の懐(ふところ)を免る。夫れ三年の喪は天下の通喪(つうも)なり。予や、三年の愛其の父母に有るか。


【訳文】
先師が居合せた門人達に言った。
「宰予はなんと不仁なことよ。子が生まれて三年、漸く父母の懐をはなれるのである。一体三年の喪は、世の中の人が誰もやっている共通の喪である。宰予も三年の父母の保育の愛情を受けた筈なのに、忘れてしまったのであろうか」(伊與田覺先生訳)


親の心子知らず


とは昔からよく言われることです。


小生も親になってみて、子供たちの親を思う気持ちに寂しさを感じることもあります。


しかし一斎先生は、「お前自身が、まったく同じ事を両親にしてきたのではないか?」と小生に問いかけられておられるようです。


返す言葉もありません。


幸いにして両親とも健在である小生です。


我が身の将来をああでもない、こうでもないと考える前に、父母への恩返しをしっかりとすべきですね。


森信三先生が敬愛してやまなかった西晋一郎先生の言葉に


父母の恩の有無厚薄を問わない。父母即恩である。


という至言があります。


父母の存在そのものが恩の対象なのだ、というこの言葉をもう一度かみ締めてみたいと思います。