原文】
人の世に処する、多少の応酬、塵労、閙擾(とうじょう)有り。膠膠擾(こうこうじょうじょう)として起滅すること端(たん)無し。因って復た此の計較(けいこう)、揣摩(しま)、歆羨(きんせん)、慳吝(けんりん)、無量の客感妄想を生ず。都(すべ)て是れ習気之を為すなり。之を魑魅、百怪の昏夜(こんや)に横行するもの、太陽の一たび出づるに及べば、則ち遁逃(とんとう)して迹を潜むるに譬う。心の霊光は、太陽と明(ひかり)を並ぶ。能く其の霊光に達すれば、即ち習気消滅して之が嬰累(えいるい)を為すこと能わず。聖人之を一掃して曰く、何をか思い何をか慮らんと。而して其の思は邪(よこしま)無きに帰す。邪無きは即ち霊光の本体なり。


【訳文】
人間がこの世に処して行くには、多少とも、人との交際もしなければならないし、煩悩のために迷うこともある。色々な事が動き乱れ、起きたり無くなったりして限りがない。よって、計り較べたり、推量したり、羨みねたんだり、けちってみたり、実に限りなく周囲の環境から起る感情や妄念が色々と生じてくる。これらはことごとく、世間の慣習のなすところのものである。色々な妖怪が、夜の暗闇の中で勝手気ままに振舞っているが、太陽が出て明るくなると、逃げかくれて、迹形も無くなってしまうように、心の霊妙な光は、太陽と明るさを同じくしている。心が霊妙に達したならば、妄念邪気は消え去って、それらがわずらいをなすことはできない。聖人は、これを掃(はら)いのけて言うには、「何を思おうか、何を考えようか(何も思考する所はない)」と。つまり、われわれの思いに、邪念が無くなればそれでよいことになる。この邪念の無いということが、心の霊光の本体なのである。


【所感】
人がこの世で生きていくためには、多少の交際もあれば、煩悩に悩まされることもあり、また騒ぎに巻き込まれることもあろう。様々に動き乱れ、起こったり消滅したりして限りがない。よって比較してみたり、推量したり、うらやんだり、貪ったりけちったりして、限りなく妄想を生じさせる。これらはすべて世間の慣習によって起こるものである。例えてみれば、妖怪が闇夜の中で好き勝手に振舞っていても、太陽が昇れば逃げ隠れて跡形もなくなってしまうのと同じである。心の霊妙な光は太陽の明るさと同等である。心がその霊妙な光に達したならば、世間の慣習によって引き起こされる妄想も消え去って悪さを起こすことができない。聖人はこれらを一掃して言う。何を思うか、何を慮ろうかと。結局それは、わが思いに邪(よこしま)なところがなくなる、ということである。邪な心がないということこそ、心の霊妙な光の本体なのだ、と一斎先生は言います。


何をか思い何をか慮らん


とは『易経』繋辞下にある言葉で、一斎先生は『周易欄外書』の中で、


天下何をか思ひ、何をか慮らんとは、無心の感を謂ふなり。


と注記しているそうです。


また、


思は邪無し


とは、元々は『詩経』にある言葉ですが、孔子が『論語』で取り上げたことで有名な言葉となっています。


【原文】
子曰わく、詩三百、一言以て之を蔽う。曰わく、思邪無し。(為政第二篇)


【訳文】
先師が言われた。
「詩経にはおよそ三百篇の詩があるが、その全体を貫く精神は『思い邪なし』ということである。(伊與田覺先生訳)


これについても、一斎先生は『論語欄外書』の中で、


邪無しとは、誠なるなり。思邪無しとは、即ち思誠なるなり。思誠の外に学無し。


と記述しています。


つまりこの章で一斎先生が仰っているのは、聖人君子のごとく、心から霊妙な光を発するようになるためには、心を無心にし、ただ己の誠を尽くすのだ、ということのようです。


しかし小生のような凡人にとっては、人と比べて悩んだり、けちな気持ちが沸き起こるのを制することは、並大抵のことではありません。


そこで小生が今現在、森信三先生のお言葉


一切の悩みは比較より生ず


を肝に銘じて、人と比べない人生を歩むことに重点を置いています。