原文】
「寧ろ人の我に負(そむ)くも、我は人に負く毋れ」とは、固(まこと)に確言と為す。余も亦謂う、「人の我に負く時、我は当に吾の負くを致す所以を思いて以て自ら反りみ、且つ以て切磋砥礪(せっさしれい)の地と為すべし」と。我に於いて多少の益有り。烏(いずく)んぞ之を仇視すべけんや。


【訳文】
「たとえ、人が自分の恩義に背くようなことがあっても、自分は恩義に負くようなことはしない」ということは、誠に確かな言葉といえる。私もまた「人が自分に負くような時には、自分が背かれなければならない理由をよく考えて反省し、そのことを、自分の学徳を磨く土台となすべきである」という。このようにすれば、自分には沢山益することになる。どうしてその人を仇敵と見なすことができようか。


【所感】
「たとえ人が自分を裏切っても、自分は人を裏切ることはしない」という言葉は確かな言葉である。私もまた言おう、「人が私を裏切るとき、私はなぜそうなったのかの理由を思って自らを反省し、自らを磨き上げる土台とすべきである」と。私には大変有益なことであって、どうしてこれを敵視する必要があろうか、と一斎先生は言います。


最初に出てくる言葉は、陸宣公(唐の徳宗の頃の人)の奏議文にある言葉だそうです。


人は独りでは生きられない生き物ですから、どうしても他人の評価や対応に意識が向いてしまうものではないでしょうか。


しかしながら他人を自分の思い通りの人に変えることはできないのも事実です。


そうであるならば、変えることができない他人について思い悩むより、矢印を自分に向けて、己を省みるべきだと、一斎先生は仰っています。


省みるということについて、『論語』には有名な言葉があります。


【原文】
曽子曰わく、吾日に吾が身を三省(さんせい)す。人の爲(た)めに謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(ほうゆう)と交りて信ならざるか、習わざるを傳(つた)うるか。 (学而第一篇)


【訳文】
曽先生が言われた。
「私は毎日、自分をたびたびかえりみて、よくないことははぶいておる。人の為を思うて、真心からやったかどうか。友達と交ってうそいつわりはなかったか。まだ習得しないことを人に教えるようなことはなかったか」(伊與田覺先生訳)


孔子の弟子である曽子の言葉です。
(ちなみに書店の三省堂さんは、ここから社名を採っていることはご存知の方も多いでしょう。)


ここで注意すべき点は、曽子はこの3つの反省項目すべてにおいて他人との関わりに主眼を置きつつ、その反省の矢印はすべて自分自身に向けられているということにあります。


他人と常に交わる人間の理想的な態度であると共に、その実践は小生のような凡愚の身には大変むずかしいことでもあります。


なお、この『論語』の章句に関する解説において、安岡正篤先生はこの「省」という字には、「かえりみる」という意味だけでなく、「はぶく」という意味も含有していることに気付かねばならないとご指摘されています。


つまり他人との関わりを省みて、自分自身の中に改善すべき点を見出したならば、積極的に省いていかねばならないということです。


日々、人との交わりを反省(かえりみて、はぶく)することで、余分な雑念を捨てていくならば、君子となる日がくるかもしれません。