原文】
人或は謂う「外物累を為す」と。愚は則ち謂う「万物は皆我と同体にして、必ずしも累を為さず。蓋し我れ自ら累するなり」と。


【訳文】
人は「外物(富貴名利)のために煩わされてうるさい」というが、私は「天地間の万物はことごとく自分と一体の関係にあるからして、別に必ずしも煩いをなさない。煩いをするというのは、外物でなくて、自分自身がなしているのである」と思う。


【所感】
人はときに「富貴名利などの外物に煩わされる」という。私は言う「すべての物は皆自分と一体であって、必ずしも煩いをなすものではない。思うに、己が自ら思い悩むだけである」と。


この章で一斎先生が仰りたいことは、意を誠にすれば内外一致して万物と一体となり、外物に煩わされることはない、ということのようです。


ちなみに「意を誠にす」とは、自らを欺かないことであると、『大学』に述べられています。


つまり自らを欺かず、宇宙の法則に逆らうことなく日々を過ごすならば、何があっても煩わされることはない、ということでしょう。


確かに考えてみれば小生は、本当の自分ではない自分であろうとするとき、つまり背伸びをしているときに、思い悩んできたのかも知れません。


『荘子』に下記のような言葉があります。


【原文】
古(いにしえ)の真人は、生を説(よろこ)ぶことを知らず、死を悪むことを知らず。その出づるも訴(よろこ)ばず、その入るも距(こば)まず。翛然(ゆうぜん)として往き、翛然として来たるのみ。


【訳文】
「道」を体得した人物は、生に執着するでもないし、死を忌避するでもない。この世に生を受けたからといって喜ぶこともなく、この世を去るからといって悲しむでもない。ただ、無心に来て、無心に去っていくだけである」(守屋洋先生)


無心となればもはや悩むことなどないはずです。


結局は、外に原因はなくして内に原因あり、と認識するところから君子の道はスタートするということでしょう。