原文】
宇は是れ対待の易にして、宙は是れ流行の易なり。宇宙は我が心に外ならず。


【訳文】
宇とは無限の空間的な広さを意味し、そこには万物が互いに交わり会って対立して存在している。宙とは悠久な時間的な長さを意味し、それには万物が絶えず流行し化変し続けている。かかる無限な宇宙は、すなわち我が心にほかならない。


【所感】
宇とは処によって変化して各々その宜しきを得ることをさし、宙とは時によって変化して各々その宜しきを得ることを指す。結局宇宙はわが心の中にあるのだ、と一斎先生は言います。


『淮南子』斉俗訓には


往古今来、これを宙と云い、四方上下、これを宇と云う。


とあります。


つまり、宇とは天地四方上下の無限の空間を指し、宙とは古より今を通じて流れる無限の時間を指すということです。


これを受けて一斎先生は、宇を空間的な変化を含むもの、宙を時間的な変化を含むものとして、上記のようなお言葉を述べられたのでしょう。


これはある意味で、禅的な考え方と合致していると言えるのではないでしょうか。


つまり、空間的なことであろうと、時間的なことであろうと、それを捉えるのは主体である自己であって、自己を失ってしまえばそこに過去も未来も「いまここ」という概念も消えうせてしまうのだということでしょう。


心が大自然の法則に従うならば、あらゆる変化に対応することが可能となる。


よって心を磨き、心を研ぎ澄ましなさい。


すべてはあたなの心の在り方次第ですよ、と一斎先生はお示しになられたのでしょう。


最後に、『荘子』(逍遥遊篇)にある箴言をご紹介しましょう。


【原文】
至人は己なく、神人(しんじん)は功なく、聖人は名なし。


【訳文】
至人は自分にこだわらない。神人は功績にとらわれない。聖人は名誉に関心を示さない。(守屋洋先生訳)


心を磨いて大自然の法則と一体になるとは、己をなくすことだとも言えるようです。