原文】
中の字は、最も認め叵(がた)し。愞弱(ぜんじゃく)の人の認めて以て中と為す者は、皆及ばざるなり。気魄の人の認めて以て中と為す者は、皆過ぎたるなり。故に君子の道鮮(すくな)し。


【訳文】
過不及の無い「中」というものは、なかなか見出しにくいものである。気の弱い性質の人が「中」だと思うものは、総て「中」に及ばないものである。それとは反対に、何ものにも屈しない強い意思の人が「中」だと考えるものは、総て「中」を過ぎたものである。それ故に、君子の道とされている「中」は少ないものといえる。


【所感】
中の状態でいることは本当に難しい。気の弱い人が中だと認めているものはみな中に及ばない。また気魄のある人が中だと認めているものはみな中を過ぎている。そのような状況であるから、中庸なる君子の道は殆ど行われていないも同然だ、と一斎先生は言います。


中庸の徳が最初に文献に登場するのは『論語』においてです。


【原文】
子曰わく、中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。(雍也第六篇)


【訳文】
先師が言われた。
「中庸の徳というものは、完全で最高だ。蓋し一般の人の間に行われなくなってから久しいなぁ」(伊與田覺先生訳)


このように『論語』の中で、孔子は最高の徳のひとつとして中庸の徳を挙げているのです。


これ以降、中庸の徳は儒家の間で中心的な概念のひとつとして尊重されています。


そしてその後、孔子の孫である子思が『中庸』を著したということが通説となっています。(異説あり)


では、中庸とは何を意味するのでしょうか。


「中」とは偏らないこと、特に思想において偏りがないことを意味しているものと小生は理解しています。


決して、学業の成績が真ん中であるとか、一方の議論に与しないというような中途半端な状態を指す言葉ではないことを理解しておく必要があります。


その時々の状況を適切に判断して、極端にならないことだということでしょう。


「庸」は常に、とか平常において、といった意味に解するようです。


よって、簡単に訳してしまえば、常に偏らないこととなります。


言葉の意味としては簡易ではありますが、孔子も嘆いておられるように、実行するとなると難しく、孔子の時代も現代においても、常に中庸の徳をもって世に処している人というのは極めて少ないようです。


中庸の徳を発揮するためには、常にブレない心の軸、行動の軸が必要になります。


その軸を手に入れるためには、師をもち、畏友と呼べる仲間と切磋琢磨することが捷径(近道)であるということは、これまでにも述べてきました。


常に中庸の位置に居ることが出来る人を君子と呼ぶのでしょう。


ところが小生のような凡人がそこを目指すのはあまりにも遠い道のりのようにも思えます。


まずは、偏りを生じたときに、その偏りに気づき、自ずから修正できる人でありたいものです。