原文】
精神を収斂する時、自ら聡明を閉ずるが如きを覚ゆ。然れども熟後(じゅくご)に及べば、則ち闇然(あんぜん)として日に章(あきら)かなり。機心酬酢(しゅうさく)の時、自ら聡明通達するを覚ゆ。然れども稔(じん)して以て習と成れば、則ち的然として日に亡ぶ。


【訳文】
もっぱら精神をひきしめて修業する時には、自分の賢明さを閉ざされたように思うが、しかし修業が習熟してくると、暗闇の中に日に日に光明が現われてくるようになる。機智をはたらかせて人と応対している時には、自分が賢くて物事に明るいような気がするが、しかしそのように利口ぶることばかり習熟してくると、精神をひきしめて修養するということが、日に日に消え去ってしまうことになる。


【所感】
精神のはたらきを抑制してエネルギーを内面に蓄えているときは、自分の聡明さが閉ざされたように感じるものである。しかしそれが成熟してくれば、暗闇の中に日々光明がさしてくる。心をはたらかせて人に交わり応対していると、自分がおおいに聡明になったように感じる。しかしそれを長い間積み重ねて慣れてくると、日に日に自己が崩壊していくことになろう、と一斎先生は言います。


この章句のベースになっているのは、『中庸』にある以下の言葉です。


【原文】
詩に曰く、錦(にしき)を衣(き)て絅(けい)を尚(くわ)ふ、と。
其の文の著(あらは)るるを惡(い)めばなり。故に君子の道は、闇然として而も日々に章かなり。小人の道は、的然として而も日々に亡ぶ。(第三十三章)


【訳文】
『詩経』には、「錦の衣の上には、薄い衣を羽織っている。その美しさよ」とある。薄い衣を羽織るのは、錦のあやが外にけばけばしく現われるのをきらうからであって、錦を内にひめてこそ美しさがはえる。この道理で、君子の守り行なう道は、ちょっと見ただけでは真っ暗でなにもわからないが、日がたつにつれてその善さがあざやかになる。(これに反して)小人の行なう道は、(ちょっと見ただけでは)あかあかと輝くばかりで善いようだが、日が経つにつれて消えうせてしまう。(赤塚忠先生訳)


ここでは、一斎先生は学問とは自らの徳を高めるために行うものであって、人にひけらかすためにするものではないことを説いているのだと、小生は理解しています。


孔子もこう仰っています。


【原文】
子曰わく、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。(憲問第十四篇)


【訳文
先師が言われた。
「昔の学んだ人は、自分の(修養)のためにしたが、今の学ぶ人は、人に知られたいためにしている」(伊與田覺先生訳)


人のためでなく己のために学べば、いつしか暗闇の中に小さな灯りをみつけることができる。


つまり己を高めることができるということでしょう。


ところが知識をひけらかすために学べば、かえってそれは己を崩壊させることになるのだ、と一斎先生は警告されておられます。


小生などは、新しい知識を得るとすぐに他人に伝えようとします。


習わざるを伝えしことは、いかに危険な行為であるのかをもう一度しっかりと認識して、吾が身を三省すべきですね。