【原文】
申申夭夭(しんしんようよう)の気象は、収斂の熟する時、自ら能く是(かく)の如きか。
【訳文】
のびのびして、にこやかな気分は、精神の修養が十分に習熟した時にこそ、自然にそのようになれるものだろうか。
【所感】
のびのびとにこやかに寛いだ気分というのは、精神が修養によって成熟してくると、自然と到達する境地なのであろう、と一斎先生は言います。
申申夭夭とは、『論語』の下記の文章からの引用でしょう。
【原文】
子の燕居するや、申申如たり、夭夭如たり。(述而第七篇)
【訳文】
先師が、家にくつろいでおられるときはのびのびとされ、にこやかなお顔をしておられた。(伊與田覺先生訳)
余談ですが、孔子という人はこのように普段はにこやかであって、弟子を相手に戯言をいうようなお茶目な性格も持ち合わせていたようです。
さて、この一斎先生のお言葉ですが、なんとなく分かるような気がしますね。
心を磨きに磨いた人ほど、普段は自然体で居ることができるようになるのでしょう。
威張ったり、虚勢を張ったり、わざと難しい顔をしたりといった行為は、その人がまだまだ君子と呼ぶには遠い人物であることを露呈しているとも言えそうです。
小生など、リーダーになりたての頃には、精一杯虚勢を張って、傲慢な態度でメンバーに接していたことを恥ずかしさと共に思い出します。
第218日のところで、大山巌元帥のエピソードをご紹介しました。
大山元帥は、敬愛する西郷隆盛公であればどう対応するであろうか、と考えて世紀の一芝居を打ったとのことです。
自然体という意味では、西郷南洲翁の右にでる者はいないでしょう。
西郷さんがいつも自然体で居ることができたのは、海に身を投げて偶然にも救われたり、二度の島流しを経験しつつ、そこでまさに我が身を修練したからに他なりません。
自然体と言われる人に会ったときには、その人が人知れず鍛錬を行なってきたことに思いを馳せる得る人でありたいものです。