原文】
操(と)れば則ち存するは人なり。舎(す)つれば則ち亡ぶは禽獣なり。操舎は一刻にして、人禽判る。戒めざる可けんや。


【訳文】
善なる本性をしっかり守って失わないようにしているのは人間である。それを捨てて無くしているのが禽獣である。執り守るのも捨てるのも、ほんのわずかの違いであって、ただそれだけで人間と禽獣の判別がつく。戒めないでよかろうか。戒めなければいけない。


【所感】
仁義の心をしっかりと守っているのが人間であり、仁義の心を捨てて亡くしてしまったのが禽獣である。とるか捨てるかは一瞬のことであって、それで人間と禽獣の区別がついてしまう。戒めないわけにはいかない、と一斎先生は言います。


この章句は、以下の『孟子』告子章句上にある言葉からの引用です。


孟子は、はげ山は初めからはげ山だったわけではなく、人為的な伐採と放牧によってはげ山となってしまったのであり、もともとは木の生い茂る山だったのだという譬えを挙げ、人にも本来は仁義の心があるが、いつの間にかそれが放っておかれて禽獣に近づいている、と述べた後に、孔子の言葉として、


操れば則ち存し、舎つれば則ち亡(ぼう)す。


を取り上げ、その発言を総括しています。


孔子や孟子といった儒家は、人と禽獣と異なる所以を、仁義の心の有無にあるとしています。


吉田松陰先生は「士規七則」の中で、人と禽獣と異なる所以を以下のように述べられています。


凡そ生れて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。 蓋し人には五倫あり、而して君臣父子を最も大なりと為す。 故に人の人たる所以は忠孝を本と為なす。 


つまり人が禽獣と異なる要素のひとつとして、忠孝を説いています。


また、森信三先生は、『修身教授録』の中で人と禽獣と異なる所以を以下のように述べておられます。


われわれ人間が禽獣と異なるゆえんの真の根本は、結局理智の奥底にあって、常に理智を照らして導くところの、真の人生の叡智でなくてはならぬでしょう。すなわちわれわれ人間に、真の正しい生き方を教える真の叡智でなくてはならないのです。


以上のように、各々の先生方それぞれに異なった視点で人と禽獣とを分け隔てている要素について定義づけをされていますが、共通しているのは言葉や容姿などではなく、心の在り様を取り上げていることです。


これらはすべて人間が本来有している資質であって、それを修養によってしっかりと磨いて心に抱けば人となり、それを忘れて放り投げていれば禽獣と変わらない、と一斎先生は結論づけておられます。


つまりこうした徳を磨いて居なければ、その人は人の容姿をした禽獣に過ぎないのであり、しかもそうした徳を心に有しているか否かは、一瞬にして見破られてしまうものだとしています。


せっかく人として生まれてきたのですから、最後まで人間として生を全うしたいですよね。


そのためには、少なくとも仁義(儒家)、忠孝(松陰先生)、叡智(森先生)のいずれかを常に心に留めて日々を過ごしていかねばならないようです。