原文】
好みて大言を為す者有り、其の人必ず小量なり。好みて壮言を為す者有り、其の人必ず怯愞(きょうだ)なり。唯だ言葉の大ならず壮ならず、中に含蓄有る者、多くは是れ識量弘恢(こうかい)の人物なり。


【訳文】
世の中には好んで大きな事を言う者がいる。そういう人はきまって度量が小さい。また、好んで元気盛んな言葉を口にする者がいる。そういう人はきまって臆病である。ただ口にする言葉が、大きくもなく元気でもなく、その言葉の中に何となく深い意味を含んでいるような言葉を吐く人は、たいていは見識も高く度量も広く大きい人物である。


【所感】
あえて大きな事を言う人がいるが、そういう人は必ず小人物である。あえて意気盛んな言葉を発している人もいるが、そういう人は必ず臆病な人物である。言葉は大き過ぎず、勇まし過ぎもせず、含蓄のあることを話す人は見識も博く、度量も寛大な人である、と一斎先生は言います。


冒頭から小生の心に突き刺さる言葉が発せられています。


小生はどちらかというと大言壮語の傾向がありますが、そんな奴は臆病者の小人物だと看破されてしまいました。


元々儒教においては、行ないより言葉が先に立つことを戒められています。


『論語』の中に面白い件があります。


孔子と弟子の宰我(予)との問答です。


【原文】
子曰わく、始め吾人に於けるや、其の言(ことば)を聴きて其の行(おこない)を信ず。今吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行いを觀る。予に於てか是を改む。(公冶長第五篇)


【訳文】
先師は言われた。
「私は今までは、人の言葉を聞いてその人の行いを信じた。だが今は、その人の言葉を聞いても、その行いを見てから信じるようにしよう。お前によって人の見方を変えたからだよ。(伊與田覺先生訳)


孔子の弟子である宰我(名は予)が昼寝をしていて、孔子にこっぴどくやり込められる場面で孔子が発した言葉です。


宰我は三千人いたと言われる孔子の門下において、言語に優れるとして孔門の十哲(じってつ)に挙げられているほどの人物です。


ただ言葉が巧みなだけに、得てして大言壮語を吐いたり、あるいは敢てとげのある言葉を発する傾向があったようです。


このため『論語』においては4回登場しますが、すべて孔子に叱られているという個性的なキャラクターの持ち主です。


孔子はこの宰我を見て、人物鑑定のやり方を変えたとまで仰っているところが面白いですよね。


ただし、宰我は決して小人物ではないのですが。。。


では、どんな人が良しとされるのか。


『論語』から答えを探してみましょう。


【原文】
剛毅木訥仁に近し。(子路第十三篇)


【訳文】
人の気質には剛といって強くて何物にも屈しないものがあり、毅といって忍耐力が強くて操守の堅固なものがあり、木といって要望が質樸で飾りのないものがあり、訥といって口を利くことが下手で遅鈍なものがある。この四つは皆質が美しくて仁に近いものである。(宇野哲人先生訳)


やはり仁者への道ははるかに遠いようです。。。