【原文】
古往今来、生生息(や)まず。精気は物を為すも、天地未だ嘗て一物をも増さず。游魂は変を為すも、天地未だ嘗て一気をも減ぜず。


【訳文】
昔から現在に至るまで、生々として休むことなく、天地の精気は万物を生成しているが、この天地の間に、いまだ何一つ物を増したということはない。生物は死んで魂気は離散したが、この天地の間に、いまだ一気を減じたこともない。


【所感】
太古から現在に至るまで、生々として休むことなく、陰陽は相和合して万物を生み続けているが、いまだ嘗て何一つとして物を増やしてはいない。精気は衰えてやがて万物はその命を失うが、いまだ嘗て一つとして気を減らしてはいない、と一斎先生は言います。


小生には難解過ぎる章です。


この章句は、『易経』 繋辞上篇にある、


精気物と為(な)り、游魂変を為す。


をベースにしていることは間違いないでしょう。


該当部分の『易』における本田濟先生の解説を引用します。


精気は生命体を構成する vaitality 。精は官能、陰に属し、魄ともいう。気は呼吸、陽に属する。魂と言いかえられる。生きている間は、魂と魄と結合しているが、死ぬと分離する。魂は軽くて天に昇り、魄は重くて地中に降る。游魂は昇り切らずに浮游せる魂。


万物はこの陰と陽をなす精気の集散に過ぎないのであるから、何物も増えることはなく、また減ることもない、という理解をすれば良いのでしょうか?


さらには、人間といえども魂魄の合体物に過ぎないのであって、一たび死ねば魂魄は分離して、魂は天に魄は地へと帰っていく、ということのようです。


そのように考えてみると、人間も天(あるいは神)の力によって生かされているのだ、という感を強くします。


天によって生かされているならば、その天から使命、すなわち天命を与えられているはずです。


自分にしかできないことは何か?


森信三先生はこう仰っています。


真の誠とは、その時その時の自己の「精一杯」を尽しながら、しかも常にその足らざることを嘆くものでなくてはならぬ。


人生80年とすれば、小生に残された期間はあと30年です。


誠を尽し切って最期を迎えたいものです。