【原文】
人は当に自ら我が軀(み)に主宰有るを認むべし。主宰は何物たるか。物は何れの処にか在る。中を主として一を守り、能く流行し、能く変化し、宇宙を以て体と為し、鬼神を以て迹と為し、霊霊明明、至微(しび)にして顕、呼びて道心と做(な)す。


【訳文】
人は自分の身体に自分を支配(統御)するところのものが存在していることを知らなければならない。その支配するものとは一体何物であるのか。またその物はどこにあるのか。それは中正の道を専一に守り、あまねく行きわたり、よく変化し、この宇宙を以て本体とし、鬼神のような行動をし、霊妙にして明らかであり、極めて微細にしてしかも顕著なものである。人はこれを呼んで道心といっている。


【所感】
人は自分の体を主宰するものがあることを知るべきである。主宰とは何か。それはどこに存在するのか。中庸を主としてこれを守り、よく行き渡り、よく変化し、宇宙万物と一体となり、陰陽二気を働かせており、霊妙で明らかであり、非常に微細であって顕著である。それこそ即ち道心と呼ばれるものである、と一斎先生は言います。


またまた難解な言葉が続きます。


ここは、『書経』大禹謨にある以下の言葉からインスパイアされているものと思われます。


【原文】
人心惟れ危うく、道心惟れ微なり。惟れ精、惟れ一、允(まこと)に厥(そ)の中を執れ。


【訳文】
人の心はすこぶる不安定であり、道の心はまことにほのかで捉えがたいものだ。だからおまえは心を純粋にして、なによりも中庸の道を取り行なわねばならない。(尾崎雄二郎先生他)


万物の霊長である人間は、天の最高の創造物であり、当然ながら天によって支配されているものだ、と一斎先生は捉えておられるようです。


そして、それは人間の内部にあっては心が主宰となり、常に天地・陰陽とのバランスを取りながら働いているもので、通常これを道心と呼ぶのだ、とされております。


人間の心は無形でありながら、しかし確実に存在しています。


すでに何度も学んできたように、心の置き所は、「中」にあります。


常にバランスの取れた、偏りのない心とは、人間が生まれ出たときに天から授けられた純真無垢な心を意味します。


歌手で俳優の武田鉄矢さんは、その著『西の窓辺へお行きなさい』(小学館)の中で、人生を登山に例え、人はある程度の年齢に達したら山を降りなければならない、と書かれています。


武田さんは大病を期に、以下のごとく考えるようになったそうです。


人生の登り道はひとつだけど、降る道は人それぞれの数だけある。自分らしく降りていくにはどうすればいいのか。


生きていくうちに、人の心にはたくさんの汚れがこびりついていきます。


では、そんな心の汚れを取り除くためには、何をすべきなのか?


小生は、これまでの学びから以下のように考えています。


これまで手にして来たものを少しずつ捨てていかねばならない。


見事に山を下り切り、余分なものはすべて捨て去って、生まれたときと同じきれいな心に戻して天にお返しする。


そんな最期を迎えたいものです。