【原文】
心は二つ有るに非ず。其の本体を語れば、則ち之を道心と謂う。性の体なり。其の体軀に渉るよりすれば、則ち之を人心と謂う。情の発するなり。故に道心能く体軀を主宰すれば、則ち形色其の天性の本然を失わず。唯だ聖人能く精一の功を用いて、以て其の形を践むのみ。然れども此の功を知覚するも、亦即ち道心の霊光にして、二に非ざるなり。


【訳文】
道心と人心のあることを述べたが、心に二つの心が存在するものではない。心の本体(性)を道心というのであって、これは本性を指していうのである。それが身体に関係する所からいえば、これを人心というのであって、これは人間の情が外に現われたのをいうのである。(性の発動したものが情で、性情は体用の関係にある)それで、心の本体である道心がよく身体を統御するならば、形体や顔色は天から受けたありのままの純なる姿を失わない。この事は、ただ聖人だけが、よく純真な心の作用を以てして、耳目など各性能を十分に全うすることができる(普通の人にはむずかしいことである)。この純真な心の働きを知覚できるのも、道心の霊妙な作用であって、道心と人心とは別個二つのものではないのである。


【所感】
道心と人心という二つの心があるわけではない。天性の心を道心というのである。本性が表れた状態である。それが身体に作用したものが人心である。人情が表れた状態である。したがって、道心が人間を支配すれば、耳目がよく視聴するように天性のはたらきを失うことはない。ただ聖人と呼ばれる人だけが純粋に専一にそのはたらきを全うしている。(つまり人心を制御している)しかし、そのはたらきを知覚するのも道心の霊妙な作用であるので、道心と人心とは二つ別々のものではないのである、と一斎先生は言います。


引き続き、道心と人心についての章句です。


何度もこの言葉を目にし、読み込むうちに少しずつ、この道心と人心についても理解が進んだように思われます。


聖人と呼ばれる人だけが、完璧に人心をコントロールできるのであって、凡人にはなかなか難しいことだ、と一斎先生は仰っています。


以前にも書きましたが、小生のような凡愚な人間は、間違っても欲を無くそうなどと思ってはいけないのでしょう。


まずは欲に打ち克つことを目指すべきです。
まさに克己です。


欲を我慢しようなどと考えるのも浅はかです。


欲に打ち克つとは、その欲望を忘れられるほど仕事に打込むことです。


孔子が天命と呼んだものは、そうした己が全霊を尽して打ち込むことができる仕事を指しているのではないでしょうか?


己の道心を発揮して、人心を抑え込むためにも、天命を知ることが大切なようです。


小生も今年50歳となりますが、未だ「天からの封書」を空けきれておりません。


小生が、潤身読書会を主査したり、この一日一斎を毎日書き続けているのも、天命探しのあがきの姿だと言えそうです。