【原文】
弊を矯(た)むるの説は、必ず復た弊を生ず。只だ当に学は己の為にするを知るべし。学は己の為にするを知る者は、必ず之を己に求む。是れ心学なり。力を得る処に至れば、則ち宜しく其の自得する所に任ずべし。小異有りと雖も、大同を害せず。


【訳文】
弊害を矯正(ためなおす)するという考えは、必ずまた弊害を生ずるものである。ただ学問というものは、自分の修養のためにするものであることを知らなければならない。学問は自分のためにするものであるということを知る者は、必ずこれを自分に求めるものである。これが心を修養する学問なのである。この修養の力ができた場合には、自分の心の悟る所に任すがよい。そうしたならば、少しの違いくらいはあっても、別に大した支障を来たすものでもない。


【所感】
弊害を矯正する説は、結局また別の弊害を生むものである。学問というものはただ自分自身のためにするものであることを知るべきである。学問は自分のためにするということを知っている者は、必ず学んだこと(ここでは弊害の矯正)を自分自身に求めるものだ。これが心の学問である。自分自身のために学問をする力を会得したならば、自分の悟る所に任せればよい。そうしたところで、小さな違いはあったとしても、大きな問題とはならないであろう、と一斎先生は言います。


『論語』にもこうあります。


【原文】
子曰わく、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。(憲問第十四篇)


【訳文】
先師が言われた。
「昔の学んだ人は、自分の(修養)のためにしたが、今の学ぶ人は、人に知られたいためにしている」(伊與田覺先生訳)


また『孟子』 にはこうあります。


【原文】
孟子曰く、「人の患は、好んで人の師と爲(な)るに在り。(離婁章句上)


【訳文】
孟子「人の通弊とするところは、好き好んで人の師となろうとすることだ」(宇野精一先生訳)


この『孟子』の章句について、吉田松陰先生は『講孟箚記』の中でこう解説されています。


【原文】
人の師とならんことを欲すれば、学ぶ所己が為に非ず。博聞強記、人の顧問に備るのみ。而して是学者の痛患なり。我輩尤も自ら戒むべし。凡そ学をなすの要は、己が為にするにあり。己が為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり。而して己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自ら人の師となるべし。人の為にするの学は、人の師とならんと欲すれども遂に師となるに足らず。故に云はく、「記聞(きぶん)の学は以て師となるに足らず」と。是なり。


【訳文】
人の師となりたいと思うと、その学問が自分自身を磨くためのものでなく、ただ広い知識を得て他人の顧問となり、人が使ってくれるのを待つものになってしまう。そして、このような学問になることこそ、学者共通の欠患であり、われわれが強く自身に戒むべきところである。いったい、学問をする眼目は、自己を磨き自己を確立することにある。自己を磨くためにする学問は君子の学であり、人の役に立つためにする学問は小人の学である。そして自己を磨くためにする学問は、人の師となることを好むものでないのに、自然に人から尊敬されて師となるものであり、人に役立つためにする学問は、人の師となりたいと思うものの、結局、師となる資格が身につかない。それ故に「知識だけの学問では、師となる価値がない」というのである。(近藤啓吾先生訳)


誰かに教えるための勉強は本当の勉強ではなく、自分を練磨する勉強こそが真の勉強である、ということでしょう。


吉田松陰先生の仰るように、自らを究めていく先に、人から請われて指導するという局面も拓けてくるのかも知れません。


これが小生の師匠が言う、「次のステージが迎えに来る」ということなのですね。


そして一斎先生が仰るように、すべての出来事に対して自分に矢印を向けることができるようになれば、孔子が七十にして到達した境地である、


己の欲する所に従えども、矩を踰えず。


となって、自分の思いのままに行動しても、大きな過ちを起すことがなくなるのでしょう。


己の為に学ぶ。
自分に矢印を向ける。


学ぶ上において最も意識すべきはこの二項目のようです。