【原文】
名利は固より悪しき物に非ず。但だ己私の累(わずら)わす所と為る可からず。之を愛好すと雖も、亦自ら恰好の中を得る処有り。即ち天理の当然なり。凡そ人情は愛好す可き者何ぞ限らん。而して其の間にも亦小大有り軽重有り。能く之を権衡(けんこう)すれば、斯(ここ)に其の中を得るは、即ち天理の在る所なり。人は只だ己私の累を為すを怕(おそ)るるのみ。名利豈果たして人を累せんや。


【訳文】
名誉や利益というものは、元来、悪いものではない。ただこれを、自分のためにするのはよくない。誰も名利を愛し好むけれども、各自に似合った中ほどの処を得るのがよい。それが天の道理に合うのである。だいたい人物として名利を愛し好むのには限度がない。しかしその間に大小があり軽重がある。この釣合をよくして中正を得れば、これが、すなわち天の道理に合うのである。ただ名利が自分に禍をもたらすことを恐れている人がいるが、名利がどうして人に禍をもたらすものであろうか。決してそうではない。


【所感】
名利は元来それ自体が悪いものではない。ただこれに自らを煩わされてはいけない。名利を好むことは構わないが、自分に適した所に留まるべきである。それが天の道理に適うのである。人情というものをどうして制限することができようか。しかしその間には大小や軽重がある。そこで自分の分に応じた所に落ち着くことこそが、天の道理に適うということだ。人はただ名利を私しないことを恐れるべきである。名利そのものが人を煩わせるわけではないのだ、と一斎先生は言います。


一斎先生は、名誉や利益を得ること自体を否定していません。


ただし自分の実力をよく弁え、その実力に応じた地位や財産を得ることを常に心掛けるべきだと仰っているのでしょう。


人は少しでも高い地位を求め、少しでも多くの財産を持つことを望みます。


これは人情であって、その思いを完全に失くすことはできません。


ここで大切なのは地位や名誉や財産を得ることを目的にしてはいけないということでしょう。


まずは目の前の仕事に己の誠を尽すことを優先すべきであり、その結果として地位や財産がついて来るということであるべきでしょう。


国民教育者の森信三先生は、『修身教授録』第一部第14講「真実の生活」の中で以下のように仰っております。少し長くなりますが引用させていただきます。


私は社会上の地位を、一段でも上へ上へと登っていこうとする人は、たとえばここに、様々な鉱石の層よりなる大きな絶壁があるとして、そしてその絶壁は、上へいくほどよい金属の鉱石があるとしてみましょう。するとその場合、先にのべた社会上の地位を、一段でも上へ上へと登ろうとする人は、いわばかような絶壁へ梯子をかけて、上へ登るほど、そこには立派な鉱石があるからといって、一段でも上の梯子段へ登ろうとあがいているようなものです。

もし梯子段を上へ登ることばかり考えて、そのどこかに踏みとどまって鉱石を掘ることに着手しない限り、一番上の段階まで登って、たとえそれが金脈のある場所だとしても、その人は一塊の金脈すらわが手には入らないわけです。

これに反して、仮に身は最下の段階にいたとしても、もしそれまで梯子段の上の方ばかりにつけていた眼の向きを変えて、真っすぐわが眼前の鉱石の層に向かって、力の限りハンマーをふるって掘りかけたとしたら、たとえそれは金鉱や銀鉱ではないとしても、そこには確実に何らかの鉱石が掘り出されるわけであります。すなわちその鉱石の層が鉛ならば、そこに掘り出されるものは鉛であり、またその鉱石の層が鉄鉱ならば、そこには確実に鉄鉱を掘り出すことができるわけであります。

なるほど鉄や鉛は、金銀と比べればその値段は安いでしょう。しかしまた世の中というものは、よくできたもので、鉛は鉛、鉄は鉄と、それぞれでなくては用をなさないところもあるものです。いかに金銀が尊いからといって、金銀の太刀では戦争はできません。いわんや梯子段をただ形式的に上へ登ることばかり考えている人間は、仮に金銀鉱のところまで達したとしても、実は一物をも得ずして、梯子段をさらに一段上へ登ろうとする人間です。

お互い人間として最も大切なことは、単に梯子段を一段でも上に登るということにあるのではなくて、そのどこか一ヵ所に踏みとどまって、己が力の限りハンマーをふるって、現実の人生そのものの中に埋もれている無量の鉱石を、発掘することでなくてはならぬからであります。


さて、明日からまた新しいウィークデーが始まります。


しっかりと今の仕事に真正面から取り組み、ハンマーを振るっていきましょう。