【原文】
山嶽も亦昼夜を舎(や)めず。川流も亦寂然として動かず。


【訳文】
不動の山岳は昼も夜も止むことなく四季毎に色々と変化させている。流動している川の流れは常に流動して止むことがないが、川は物静かにして不動の状態である。


【所感】
山はじっとして動かないようでいて、昼も夜も休むことなく活動している。川の水は常に流れているが、川そのものはひっそりとして動かない、と一斎先生は言います。


最初のことばは『論語』子罕第九篇にある以下の言葉を念頭においているようです。


【原文】
子、川の上(ほとり)に在りて曰わく、逝く者は斯の如きか。晝夜(ちゅうや)を舎(お)かず。


【訳文】
先師が川のほとりにあって言われた。
「時の流れはこの水のようなものであろうか。昼も夜も休まない」(伊與田覺先生訳)


また、後半のことばは『易経』にあることばのようです。


【原文】
易は思ふことなきなり、為すことなきなり。寂然として動かず、感じて遂に天下の故に通ず。(繋辞上)


【訳文】
易は無作為に、ひっそり動かぬまま、却って自然の変化に対応して、あらゆることに通ずる。


さて、本章については、講談社学術文庫の『言志四録』で川上正光先生が解説されているように、静中の動、動中の静についての教えだと理解して良いでしょう。


一斎先生は、『周易欄外書』の中で、


寂然不動は、静中に動をふむ、至精なり。感じて遂に天下の故に通ずるは、動中に静を存す、至変なり。変の翕(あつま)る処、これを精と謂ひ、精の闢(ひら)く処、これを変と謂ふ。精変合一、これ至神たり・・・。


と書かれております。(『日本思想大系』より)


動中の静は静中の動に通じるという意味で、結局はひとつであるということでしょうか。


物をよく見極めれば、万物の中に動中の静・静中の動を観ることができるのかも知れません。


常にこうした観察眼をもって、日々の修養を怠るな、ということが最終的に一斎先生がここでお伝えしたかったメッセージなのでしょうか?