【原文】
感を寂に収むるは、是れ性の情なり。寂を感に存するは、是情の性なり。


【訳文】
動的な感情を寂静不動な処に収めるのが、静的な本性から発動したる情の作用である。これに対して、寂静を動的な感情の中に存するのは、動的な情の作用の中に静的な本性が現われているといえる。


【所感】
常に揺れ動く感情を寂静不動のうちに収めるのは、性の中に情のはたらきが含まれるからである。感情のなか静寂が保存されて失われないのは、情のはたらきの中に性が存在するからである、と一斎先生は言います。


『朱子学入門』(垣内景子著、ミネルヴァ社)のなかに、性と情について非常にわかりやすく解説していただけている箇所がありますので、ここでご紹介しておきます。


朱熹はまず「心」を二つのレベルに分けて説明する。「性」と「情」である。あらゆるものごとを「理」と「気」で説明する朱熹の理気二元論で言うならば、「心」というものごとの「理」の側面が「性」と呼ばれ、「気」の側面が「情」と呼ばれるということだ。


いわば、「情」が心の現実の姿であるのに対して、「性」とは心の本来の姿であり、かつ理想の状態を意味するのであった。


心がまだ動く前が性であり、すでに動いた後が情である。(中略)欲とは情が発して出て来たものだ。心を水にたとえるならば、性は水の静かな状態、情は水の流れ、欲は水の氾濫である。


第347日の項でも記載しましたが、心が動いた結果である感情をうまく押さえるのは、「既発の和」であり、心に静寂を保ち感情を外に表さない状態が「未発の中」と呼ぶものです。


一斎先生がここで言わんとされているのは、垣内先生の表現をお借りするなら、以下のようにまとめられるでしょうか。


① 理想的には心を常に静寂に保ってみだりに感情を露出しないのが良い。(未発の中)

② しかし人間である以上、感情を完全に外に現さないことは難しいので、感情を他の人の迷惑とならぬように、ある程度コントロールする必要がある。(既発の和)

③ 決して、おのれの欲を露にしてはいけない。


感情に流され易い小生などは、これらの教訓を実践できるかは甚だ自信がありませんが、しかしこの三ヶ条を学んだことで、少なくとも③の状態にならない様に努めることはできそうです。