【原文】
知は是れ行の主宰にして乾道(けんどう)なり。行は是れ知の流行にして坤道(こんどう)なり。舎して以て体軀を成せば則ち知行なり。是れ二にして一、一にして二なり。


【訳文】
人間には知と行と二つの機能を具えているが、その知は行を司どるものであるから、地を支配する天道の如きものであるし、その行は知の流行したものであるから、地道の如きものである。この知行の両面が合して身体の機能を形成している。知と行は一心の作用にして、譬えば物の表裏の如くであって、二つのようであるが一つであり、一つであるが二つでもある。


【所感】
知は行いを司るものであるから乾の道すなわち天道のようなものである。行いは知の発揮されたものであるから、坤の道すなわち地道のようなものである。この知と行とが共に宿って人間の身体ができている。知ったことを行ってこそ本当に知ることができ、行ったことをよく検証して知ってこそ本当に行うことができるのであって、この二つは一つであり、また一つのよで二つでもあるのだ、と一斎先生は言います。


この章句は、王陽明先生の『伝習録』にある以下の言葉を下敷きにしているようです。


知はこれ行の主意、行はこれ知の功夫(くふう)。知はこれ行の始、行はこれ知の成。


さらに『日本思想大系』によりますと、一斎先生は『伝習録欄外書』において、この言葉に以下のようなコメントを付けているそうです。


行の分別処よりこれを知と謂ふ、故に主意と曰ふ。知の作為処よりこれを行ふと謂ふ、故に功夫と曰ふ。始の字、これ方始にして初始に非ず。成の字、これ作為にして完成に非ず。若し解して初始完成と為さば、主意功夫に礙あり。


ここでは陽明学の重要な教えのひとつである、知行合一を解説しております。


知行合一を理解するために、自転車に乗ることを例にとってみましょう。


あらかじめどんなに本を読んで乗り方を理解したつもりでいても、いきなり自転車に跨って颯爽と乗り回すことはできません。


実際にハンドルを握り、ペダルを踏むという行動を起こし、本で読んだ知識を加えつつ、実際に手足や身体のバランスを取って知識と行動の試行錯誤をするうちに、ある瞬間から自転車を乗りこなせるようになります。


このように知(知ること・智慧)と行(行動)とは別物のようであって、実際には切り離すことができないものだ、という考え方を知行合一と呼ぶと一般には理解されております。


一般にはと書いたのは、実は王陽明先生が唱えた「知行合一」の真の意味はそうではない、というご指摘があるからですが、これについてはいずれ機会があれば検討してみたいと思います。


いずれにしても、人間の身体には知と行の両面が備わっているのですから、バランスよく両面を発揮して、日々精進していくことが必要だということでしょう。