【原文】
竺氏は仏書を尊奉す。太(はなは)だ好し。我が学を為す者、卻って或いは経書を褻慢(せつまん)す。愧ず可く戒む可し。


【訳文】
仏教徒は仏書(お経)を鄭重にいただいて読む習慣があるが、これは大変良いことで見習うべきである。ところが、わが聖賢の学問に志す者は、いただいて読むことなどはせず、かえって経書をけなしあなどる傾向がある。まことに、恥ずべきことであり、また戒むべきことで、仏徒を手本とすべきである。


【所感
仏教徒は仏典を尊重し大切に扱う。これは大変良いことである。ところが儒学者は、かえって経書をあなどり疎かにする傾向がある。恥ずかしく思い戒めるべきことである、と一斎先生は言います。


当時の学者先生にどのような風潮があったのか、その時代背景がわかならいので、ここで一斎先生が仰っていることの真意を測ることは大変難しいですね。


確かに仏教徒は常にお経を唱えることを日課とされていますが、当時の日本の儒者たちは、儒教の経典である四書五経をあまり学ばなかったということなのでしょうか?


ご承知のように、四書五経の四書とは、『論語』・『大学』・『中庸』・『孟子』であり、五経とは、『詩経』・『書経』・『易経』・『礼記』・『春秋』を指します。


これらの経書を古いものだとして、独自の思索を押し進めたのだとすれば、それは大いに危険ですよね。


『論語』に有名な「温故知新」という言葉があります。


故きを温めて、新しきを知る、と読み、その意味は、古い物事をまるでスープをコトコト煮るかのようにじっくりと考察して、そこに新しい意味を発見するということになります。


そのようにじっくりと経書に当ることなく、義よりも利を重視して、人の意表を突くような発言によって庶民の心を扇動しようとした学者先生が多くいたのかも知れません。


仏教におけるお経やキリスト教における聖書のように、迷った時に立ち返ることができるものを持つことは、大きく道を踏み誤らないためには大変重要です。


これは企業でいえば、企業理念あるいは使命(ミッション)に当たります。


我々は何のためにビジネスをするのか、企業の存在価値をどこにおくのか、ということが明確になっていれば、重要な判断を下す際にも、先義後利の考えをもって判断が下せるはずです。
つまり、使命を先にし、利益を後にするという選択が可能になるのではないでしょうか。


学問においても、企業経営においても、迷った時に立ち返ることができる軸を持つことの重要性をこの章から読み取りたいと思います。