【原文】
静を好み動を厭う、之を懦(だ)と謂い、動を好み静を厭う、之を躁と謂う。躁は物を鎮むる能わず、懦は事を了する能わず。唯だ敬以て動静を貫き、躁ならず懦ならず、然る後能く物を鎮め事を了す。


【訳文】
静を好んで動(静中の動)を嫌がる者は、これを臆病者とも怠者(なまけもの)ともいう。その反対に、動を好んで静(動中の静)を嫌う者は、これを慌者(あわてもの)とも騒がしく落着かぬ者ともいう。慌者は物事を鎮静させることはできないし、怠者は物事を成就させることはできない。ただ、恭敬な態度で、動にも静にも偏らず、慌者でもなく怠者でもない者が、はじめて物事を鎮め物事を成就することができるのである。


【所感】
静を好んで動を嫌うことを懦すなわち臆病者と呼び、動を好んで静を嫌うことを躁すなわち慌て者と呼ぶ。躁は物事を鎮めることができず、懦は物事を完了することができない。ただ動のときも静のときも慎み深い心をもって、躁にも懦にも偏らないことが大切で、その後にはじめて上手に物事を鎮め、完了させることが可能となるのである、と一斎先生は言います。


みなさんは、静を好み動を嫌う傾向が強いですか?
それとも動を好み静を嫌う傾向が強いですか?


小生はどちらかといえば、前者の傾向が強いので、一斎先生のご指摘によれば臆病者となる恐れが高いようです。


たしかに何かを始める際には、先に結果を考えすぎて自らの既成概念との格闘を強いられることが多いように思います。


さて、ここでもまた両極に振れるのではなく、真ん中を取るという中庸の教えが説かれています。


『論語』の大変有名な一節をご紹介します。


【原文】
子貢問う、師と商と孰(いずれ)か賢(まさ)れる。子曰わく、師や過ぎたり。商や及ばず。曰わく、然(しか)らば則ち師愈(まさ)れるか。子曰わく、過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。(先進第十一)


孔子の高弟であり、孔子教団を財政面で支えた子貢という弟子が、ある時孔子に後輩の弟子である子張(師)と子夏(商)についての評価を尋ねます。

孔子は子張にはやり過ぎる面があり、子夏には足りない面がある、と答えます。

そこで子貢は、それでは子張の方が子夏に勝るということですね?と確認します。

孔子は答えます。

「過ぎた者は足りない者と同じである」と。


つまり孔子は、慌て者の子張と臆病者の子夏のどちらもまだまだである、ということを答えているわけです。


それでは、孔子が理想とし、また本章で一斎先生が仰っているような、どちらにも偏らない人とはどんな人なのでしょうか?


小生は以下のように理解しておきます。


有事のときは積極的に動いて人の先頭に立つが、平時のときは穏やかで人を立てる人。


まさに「君子ならずや」ですね。