【原文】
静坐の功は、気を定め神を凝らし、以て『小学』の一段の工夫を補うに在り。要は須らく気の容は粛、口の容は止、頭の容は直、手の容は恭にして、神を背に棲ましめ、儼然(げんぜん)として敬を持し、就(すなわ)ち自ら胸中多少の雑念・客慮・貨色・名利等の病根の伏蔵するをそう出して、以て之を掃蕩すべし。然らずして徒爾(とじ)に兀坐瞑目(ごつざめいもく)して、頑空(がんくう)を養成せば、気を定め神を凝らすに似たりと雖も、抑(そもそも)竟(つい)に何の益あらん。


【訳文】
静坐の功夫(工夫)というものは、気持を落ちつけ、精神を一つに集中して、作法を説いた『小学』の教えを一段と補うことにある。つまり、呼吸を正しく整え、口元を一文字にしめ、頭を真直ぐにし、手を乱れずにし、精神を背の方に置き、おごそかに敬虔な気持をもって、心中の色々な雑念や妄想や、そして金銭のことや名利などのかくれている心の病根を探し出して払い除かなければいけない。それをせずに、いたずらに坐って目を閉じ、かたくなでうつろな心(偏った空)を養成するならば、気を落ちつけ、心を集中しているようであるけれども、結局、何の得るところもないことになる。


【所感】
静坐の工夫は、気持を落ちつかせ精神を凝集して、『小学』にある修身・礼儀の道を行う上での一段の工夫を補うことにある。その要点は、呼吸を整え、口を閉じ、頭を真直ぐにして、手をきちんと揃えて、精神を背中に集中させ、厳かな態度で敬虔の念をもって、胸中にある雑念や妄想、あるいは金銭のことや名利といった迷いの根を見つけ出し、それを除去すべきである。そうせずして、いたずらに坐って目を閉じ、囚われの心を養成するようでは、気持を落ちつけ、精神を凝集しているようで、実際にはなんの効果も得ることができないであろう、と一斎先生は言います。


今日は静坐の工夫についてのアドバイスです。


静坐の要諦は、しっかりと精神を集中させ、型を整え、只管(ひたすら)内観することにある、ということでしょうか。


そして、己を見つめ直し、雑念や妄想、特に欲望の根元に迫り、それを少しずつ除去していくことができるならば、それこそが静坐の効用なのでしょう。


ここで学ぶべきは、型と魂の両面を充実させなければならないということでしょう。


特に武道においては、この型から入って、徐々に技を磨くというステップを踏みます。
坐禅もその点はまったく同じであるということのようです。


『論語』学而第一第十二章(有若が礼と和について述べた章)の解説の中で、武内義雄博士は、以下の様に述べられております。


礼の精神は人の和にある。しかし人の和は礼の形式を蔑視しては得られない。


これも型と魂についての名解説だと思います。


さて、忙(せわ)しない日々を過ごしていると、どうしても自分を見つめ直す時間や、自分と向き合う時間を創ることができず、心身ともに疲弊し消耗してしまいます。


ちょうど先日、小生がご指導を頂いている池田光さんの最新刊『中村天風 心が強くなる坐禅法』(池田光著、イースト・プレス)が発売になりました。


この本はCDブックですので、音声ガイド付きで天風式坐禅法の実践をサポートしてくれます。


一日10分の坐禅で良いと書かれておりますので、早速実践してみます。