【原文】
仁義礼智、種種の名色は、皆是れ本心呈露の標目にて、総称有り、子孫有り。処に随いて指点し、究(つい)に一己の心体を状(かたち)するに過ぎず。即ち是れ我が見在の活物なり。今此の言を做すも、亦此れ是(こ)の物なり。故に書を読む時は、当に認めて我が物を講ずと做すべし。事に臨む時に至りては、卻って当に認めて活書を読むと做すべし。是(かく)の如く互いに看れば、学に於いて益有り。


【訳文】
仁・義・礼・智のこれらの名称は、総て人間の心を現わした名目であって、その中には全体を称したものや部分を称したものもあり、処に従って指摘したりして、結局、自分の心の本体を言い表わしたものに過ぎない。これらのものは自分の心が現在活動している姿なのである。今このように言っているのも、また自分の心そのものである。それ故に、読書の時には、自分の心の中にある物が講義して説明しているのだと考えるべきである。また、何か事をする場合には、活きた書物を読むのであると考えるべきである。そのように互いに見てこそ、学問をする場合に得る所がある。


【所感】
仁・義・礼・智という名称は、総てみな人間の本来の心が外に現われたもので、その中には全体を称したもの、一局面に限られた呼称がある。場合に応じて名づけられ、結局は自分の心の真の在り様を言い表わしたものに過ぎない。これらのものは現在この心が活動している姿である。今このように述べているのも、この心のはたらきによるのである。それ故に、読書の時には、自分の心の中にある物を講じてもらっていると考えるべきである。また、何か事をする場合には、活きた書物を読んでいると考えるべきである。そのように互いの立場から見れば、学問をするに当たって得る所大である、と一斎先生は言います。


孔孟の教えの真髄である、五常の徳とは、ここにある仁・義・礼・智に信を加えた五項目を指します。


『論語』を読めば読むほど、「仁」を定義することは不可能であることに気づかされます。


ここで全体を称したものと一斎先生が呼んでいるものは、間違いなく「仁」でしょう。


これに対して「智」などは、たとえば天体の知識や数学の知識など個別の知識の総称であって、一局面に限定した呼称だとしているようです。


過去にも紹介したごとく、孟子は四端説(したんせつ)を唱えております。


復習の意味で再度掲載しておきます。


四端の前提となる四つの心。


惻隠の心(かわいそうだと思う心)
羞悪の心(悪を恥じ憎む心)
辞譲の心(譲り合いの心)
是非の心(善悪を判断する心)


これら四つの心は、それぞれ四つの徳の前兆(端:きざし)だと孟子は仰っています。すなわち、


惻隠の心は仁の端なり。
羞悪の心は義の端なり。
辞譲の心は礼の端なり。
是非の心は智の端なり。


つまり、仁・義・礼・智いずれも人間に本来備わっている心であって、それが物事に出遭う際に発露するものだということでしょう。


したがって、何かを求めて読書をする際は、その答えは己の心の中にあると理解して読むべきであるし、何か行動を起こす際は、あたかも活字になっていない天の書物を読むつもりで、臨むべきだと一斎先生は仰っています。


かつて、森信三先生は、二宮尊徳翁の『二宮翁夜話』の冒頭のことば、


それわが教えは書籍を尊まず、ゆえに天地をもって経文とす。


を読んで、学問的に開眼したのだそうです。


新たな仕事にチャレンジするということは、活きた書籍を読んでいるに等しいのだ、という本章の一斎先生のお言葉には、大いに心を動かされました。