【原文】
惺窩藤公は林羅山に答えし書に曰く、「陸文安は天資高明にして措辞渾浩(そじこんこう)なり。自然の妙も亦掩(おお)う可からず」と。又曰く、「紫陽は篤実にして邃密(すいみつ)なり。金渓は高明にして簡易なり。人其の異なるを見て、其の同じきを見ず。一旦貫通すれば、同じか異なるか。必ず自ら知り、然る後已まん」と。余謂う「我が邦首(はじめ)に濂・洛の学を唱うる者を藤公と為す。而して早く已に朱・陸を并(あわ)せ取ること此の如し」と。羅山も亦其の門より出ず。余の曽祖周軒は学を後藤松軒に受け、而して松軒の学も亦藤公より出ず。余の藤公を欽慕する、淵源の自(よ)る所、則ち有るか爾(しか)り。


【訳文】
藤原惺窩先生が高弟の林羅山に答えた書に、「陸象山は天性が見識高く智慧明敏にして、字句の使い方が博大で、自然の妙趣もかくし難いものが備わっておる」と述べたが、また「朱子は誠実にして、奥深く精密である。陸子は識見高く鋭敏にして直截簡明である。人々は両者の文章の異なる所を見て、その同じ所を見ない。一度その根本の所に至れば、同異がわかる。わかればそれだけのことである」と言った。自分は「わが国で初めに周子と程明道の学を唱えたのは藤原惺窩先生である。早くすでに朱・陸の学を兼ね取り入れたことについては返書の通りである」と思っている。林羅山も惺窩先生の門弟である。自分の曾祖、周軒は後藤松軒に学んだが、その松軒の学も惺窩先生から出ている。自分が惺窩先生を敬慕する所以は実にここに存するのである。


【所感】
藤原惺窩公が弟子の林羅山に答えた書には、「陸象山は天性が見識高く明敏であって、文章が流麗で雄大である。自然の妙趣もかくし難いものがある」と述べている。また、「朱子は篤実であり、奥深く精密である。陸象山は見識が高く明敏であって、簡明平易である。人々はその相違点ばかりに着目して、共通点を見ない。一度その思想の根本をたどれば、異なるか同じかは自ずとわかるもので、論ずるまでもないことである」とも述べている。私はこう言いたい、「わが国で最初に周濂渓と二程子の学を唱えたのは藤原惺窩先生である。先生は早くもその当時、朱子と陸象山の学を兼ね備えておるということは、この書をみれば明らかである」と。林羅山も惺窩先生の弟子である。自分の曾祖、周軒は後藤松軒に学んだが、その松軒の学も惺窩先生から出ている。自分が惺窩先生を深く敬慕する理由はまさにここにある、と一斎先生は言います。


ここは我が国における儒学の大本は、藤原惺窩先生がその根源であることを称えた章のようです。


これまでにも述べてきたように、朱子学と陽明学には根本における相違はなく、互いの良い点をとるべきとするのが、一斎先生のお考えであり、それは結局藤原惺窩先生の教えでもあるとうことが分かります。


そもそも佐藤一斎先生は、ここに記載されている林羅山先生の林家に養子として入った林述斎先生に近侍し、共に昌平黌(昌平坂学問所)に入門し、儒官(総長)となった林述斎先生と共に塾長として門弟の指導に当たってこられた人です。


その後、林述斎先生が他界したのを機に、儒官に就任し生涯を終えています。


ともすると今現在も朱子学と陽明学はその相違点ばかりがクローズアップされる傾向があるように思われます。


朱子学も陽明学も元は周濂渓・程明道・伊川兄弟の学に端を発し、中興された儒学であって、共通点の方がはるかに多いはずです。


物事の本質を見極める目を磨かないと、学者先生の主張に載せられて、不必要な弁明をすることになってしまいます。


小生は学者先生を目指すわけではありませんので、この二つの学派の共通点をよく理解して、実践に役立てていきます。