【原文】
明道の定性書は、精微にして平実なり。伊川の好学論は平実にして精微なり。伊・洛の源は此(ここ)に在りて、二に非ざるなり。学者真に能く之を知らば、則ち異同紛紜(ふんうん)の論息(や)む可し。


【訳文】
兄の程明道の「定性書」は、極めてくわしく細やかであって、しかも平明着実である。弟の程伊川の「好学論」は平明着実であって、しかも精細である。二程子の学の根源はここに存していて、二つあるのではない。学問に志す者は、よくこのことを了解すれば、二程子の学説についての、ごたごたとしたその異同の論争は止めるべきである。


【所感】
程明道の「答横渠先生定性書」は、非常に細やかで平明である。程伊川の「顔子所好何学論」は、平明であって、細やかである。程兄弟の学問の源流はこのようであって、別々のものではない。学問をする者は、このことを知って、見解の相違に基づく様々な論争をやめるべきである、と一斎先生は言います。


ここで言われていることは、学問をする目的をどこに置くかが大切だということでしょう。


孔子もこうおっしゃっています。


【原文】
子曰わく、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。(憲問第十四)


【訳文】
先師が言われた。
「昔の学んだ人は、自分の(修養)のためにしたが、今の学ぶ人は、人に知られたいためにしている」(伊與田覺先生訳)


学問の目的が本来の目的である自己修養のためであるなら、学説の細かな際に一つひとつ拘る必要などないはずです。


まして哲学書のような類は、そこからどんな前向きな課題を見つけ出すかがポイントなのではないでしょうか?


小生が最近勉強している石田梅岩先生は、以下のような姿勢で学問を行い、商業の発展に寄与されました。


梅岩にとって、儒学も神道も、同じく誠の道を実践する「手助け」となるものだった。どちらが正しいのか、という議論になるぐらいならば、共に捨てればいい。これが、彼のスタンスである。彼は常に、宗教や思想の先にある、性を知るという目標を見据えていた。(『石田梅岩 峻厳なる商人道徳家の孤影』森田健司著、かもがわ出版)


人間は一生涯勉強すべきだと言われますが、その目的は日常生活において「誠の道」を実践するためでなければいけないのですね。