【原文】
朱・陸の異同は、無限・太極の一条に在り。余謂(おも)えらく、「朱子の論ずる所、精到にして易(か)う可からずと為す。然るに、象山尚往復数回にして已まざれば、又交遊中の錚錚たる者あり」と。但だ疑う、両公の持論、平昔(へいせき)言う所と各々異なるを。朱子は無を説き、陸子は有を説き、地を易うるが如く然り。何ぞや。
【訳文】
朱子と陸子との見解の相違は、無極・太極の一条にある。自分が思うには、朱子の論説は精細にして、これをかえることはできない。しかるに、陸象山は往復の論弁数回にわたったのは、さすが朱子の親友中の優れた人物である。ただ自分が疑問に思うのは、両子の見解が平常と異なっていて、朱子が無を説いたり、陸子が有を説いたりして、その立場が変ったように思われる点である。これはどうしたことだろうか。
【所感】
朱子と陸子との論説の相違は、無極と太極の見解にあるといえる。私は「朱子の説は、精緻でかつ変更する必要のないものである。しかし、陸象山はなんども論説を戦わせて飽くことがなかったのは、朱子の交遊の中でも特出した人物であった証であろう」と思っている。ただ疑問に思うのは、朱子と陸子の論説は、普段主張しているところと異なっていることである。朱子は無を説いて、陸子が有を説くのは、その立場が逆転しているようである。これはどういうことだろうか、と一斎先生は言います。
ここまで深く二先生の論説に切り込むには、小生の知識はまったく不足しております。
現在、朱子学については複数本を取り寄せて勉強を始めておりますが、陸象山先生の論説についてはまったく手つかずです。
本章については、小生の力及ばずとして、スルーさせて頂き、陸象山先生についても学びを深めた暁には、もう一度この章を味わってみたいと思います。
ただ、一点だけこの章を読んで思うのは、どんな人でも主義主張が終生一貫している人はいないだろうということです。
またフレキシブルな思考をする人からすれば、一極に拘ることこそ野暮だということかも知れません。
壮にして学べば、老いて衰えず。
と一斎先生もおっしゃっています。
バランスの良い読書をしてフレキシブルな思考回路を保ちたいですね。