【原文】
文は能く意を達し、詩は能く志を言う。此の如きのみ。綺語麗辞、之を佞口(ねいこう)に比す。吾が曹の屑(いさぎよ)しとせざる所なり。


【訳文】
文章は自分の考えや思想が人に通ずればよいし、詩は心の向う所を表現すればそれでよい。巧みに飾った綺麗な言葉や文章は、人に媚びへつらうようなもので、われらが心地よいものとは思わない。


【所感】
文章は自分の思いが伝わればよく、詩は自分の心の在り様が伝わればよい。ただそれだけである。みだりに美しく飾った言葉や文章は、こびへつらいのようなもので、我が門においては必要のないものである、と一斎先生は言います。


原始儒教においては、言葉や表情を飾ることは良くないことでした。


【原文】
子曰わく、巧言令色鮮(すく)なし仁。(学而第一)


【訳文】
先師が言われた。
「ことさらに言葉を飾り、顔色をよくする者は、仁の心が乏しいものだよ」(伊與田覺先生訳)


ここで「鮮なし」としているのは、ほとんどないといった意味で、ほぼ完全否定とみて良いでしょう。


したがって、『論語』における孔子の言葉はいつも簡潔です。(それが後世において、様々な解釈を生む要因にもなっているのですが)


では、どんな態度が求められたのでしょうか?


【原文】
剛毅木訥仁に近し。(子路第十三)


【訳文】
人の気質には剛といって強くて何物にも屈しないものがあり、毅といって忍耐力が強くて操守の堅固なものがあり、木といって要望が質樸で飾りのないものがあり、訥といって口を利くことが下手で遅鈍なものがある。この四つは皆質が美しくて仁に近いものである。(宇野哲人先生訳)


言葉を飾る暇があったら、実践(行動)せよ。


これが原始儒教の重んじた道でした。


しかし、実は簡潔な文章を書くことこそ、最も難しいことなのです。


それが証拠に、文章の下手な人ほど、文章を長くだらだらと書く傾向があります。


簡潔な文章を書くための鍛錬としては、詩を読むことが最適かも知れません。


こんなことをつらつらと書いてきて、はたと思ったことがあります。


孔子が息子の鯉や他の弟子達に常に『詩(詩経)』を読めと諭したのは、簡潔な文章表現の鍛錬のためでもあったのですね。


本章を読んだことで、今更ながらにそんな大切なことに気づくことができました。