【原文】
古人は各々得力の処有り。挙げて以て指示するは可なり。但だ其の入路各々異なり、後人(こうじん)透会(とうかい)して之を得る能わず。乃ち受くる所に偏して、一を執りて以て宗旨と為し、終に流弊(りゅうへい)を生ずるに至る。余は則ち透会して一と為し、名目を立てざらんと欲す。蓋し其の名目を立てざるは、即便(すなわち)我が宗旨なり。人或いは議して曰く、「是(かく)の如くんば、則ち柁(かじ)無きの舟の如し、泊処(はくしょ)を知らず」と。余謂う、「心即ち柁なり。其の力を著(つ)くる処は、各人の自得に在り。必ずしも同じからざるなり」と。蓋し一を執りて百を廃するは、卻(かえ)って泊処を得ず。 


【訳文】
古人がそれぞれ自得した所を挙げて世に示すことはよい事である。ただ、その自得の仕方が各々異なっているので、後の人がこれをよく会得することはできない。それで、各自受け取った所に片寄って、その一つをとって主義とするために、結局さまざまな弊害を生ずることになる。自分は会得して一つの主義としたり、或いは一つの名目を立てたりうることはしない。思うに、名目を立てない所が、自分の主義なのである。人が批評して「それでは、あたかも柁の無い舟のようなもので、舟の着く所がわからない」というであろう。自分は「自分の心が柁なのである。その力の着け所(力点)は、各人が自ら自得するにあって、必ずしも同じようにする必要はない」と考える。一つの事に執着して他の百の事を廃してしまったたならば、かえって舟の行き着く所が得られない(目的を達成することができない)であろうと思う。


【所感】
昔の人が各々自得した所をもって世間に顕示することはよい事である。ただ、その自得の方法は各々異なっているので、後世の人が同じように自得することは難しい。つまり、教えられたことに片寄って、特定のものをとって宗旨とするために、遂には弊害を生ずることになる。私は自得することを第一として特定の名目に振り回されないようにしている。思うに、名目を立てない所が、私の宗旨だといえよう。人がそれを批評して「それでは、柁の無い舟のようなもので、舟の定着場所がわからない」というであろう。私はこう考える、「そもそも自分の心こそが柁なのである。その力の着け所は、各人が自ら悟るところにあるのだから、必ずしも同じ型にはめようとする必要はない」と。一つの宗旨に偏って他の百の事を廃してしまったたならば、かえって舟の定着場所が得られなくなるであろう、と一斎先生は言います。


陽朱陰王と呼ばれ、朱子学も陽明学もバランス良く教授したと言われる一斎先生ならではのお言葉ですね。


人はなにかと徒党を組みたがります。


そうなると必ず自分たちとは違う考えもつ一派を否定したくなります。


十人十色ですから、人それぞれにものの考え方や悟りの方法があるはずであって、無理に型にはめ込むことはかえって弊害でしかないのだと、一斎先生は警告されています。


『論語』の中で、孔子もこう仰っています。


【原文】
子曰わく、君子は周して比せず。小人は比して周せず。(為政第二)


【訳文】
先師が言われた。
「君子は、誰とでも公平に親しみ、ある特定の人とかたよって交わらない。小人は、かたよって交わるが、誰とも親しく公平に交わらない」(伊與田覺先生訳)


我が国においても、少し前までは「ゆとり教育」という名の下に、個性をつぶす教育が行われてきました。


その結果、よい意味での競争心を失って、大きな夢を描いて成長する子供達が極端に少なくなりました。


守・破・離


という言葉があります。


何ごとも基礎となる型を身につけること(守)は重要です。


しかし、どこかでその型を破り(破)、型から脱却して人それぞれの型を見つけていくこと(離)が望ましいのでしょう。


小生も組織の上に立つ者として、メンバーを小さな型に嵌め込めてはいないかをもう一度振り返らねばなりません。